No.1 ブログを始めるにあたって
私は、自分を表現するのが得意ではありません。いきなりそんなことを言うと、それでは何でブログなど始めるのかと言われそうです。ですので、大したことではないのですが、最初にその動機を書いておきたいと思います。
小学生の頃からずっと、自分を前に出して主張するのが苦手でした。
特に、人前で話すときはいつも言葉が足りなくて、上手く表現できない自分がもどかしく、嫌でした。学校の授業でも、いつ質問で指さされるか、ドキドキしていました。予期せず指名されたりすると、頭に血が上って取り乱してしまった記憶が今も蘇ってきます。
内面的には前向きで、好奇心の強いほうでしたので、表現をしたいという願望はあったのですが、上手く表現できない反動からか、羞恥心が強く、目立つことにいつも気持ちが引けていました。
仕事に就くようになって、少しは気持ちに落ち着きが出てきました。それでも人前で喋らなくてはならないのは苦痛でした。プレゼンとか司会とかスピーチとかをしなければならない時は、前夜から不安と緊張で眠れないこともありました。始まるまでに額も掌も汗でびっしょりとなり、口が渇きました。一種の社会不安障害であったのかもしれません。
話し終わってしまってからも、自分の思っていることと違うことを喋ってしまったと悔いることはしばしばでした。
話すことに比べると書くことは、まだましかと思っています。話すことは待ったなしで人目を浴びる状況にありますが、それに比べて書くということは、下書きや筋書きを作る準備段階が許されているから、話すこととは決定的に違います。気に入らなければ書き直すというアローワンスもあります。といっても、文字として残されるものに対しては畏れと覚悟が必要です。
公にされるということを考えますと、書くという行為も難しくなります。加えて、豊かな語彙で格調高くなどと意識してしまうと、なかなか流麗には筆が運びません。
話すことが、そして書くことが得意でなくても、時には気持ちが抑えられなくて主張を表に出した経験もあります。しかし、主張すればその責任というのか、何らかの後始末が必ず付きまとうというのも大人になるにつれて知りました。書いたものを発表するというのは大変なことなのだという気持ちの負担も年齢とともに大きくなりました。書くということも私には簡単なことではなかったのです。
年齢を重ねるということは、時間というトンネルを通っているようなものです。つまり、いつも同じところに留まっているということはなく、時の流れに沿ってすべてが変化してくるということです。
時間のトンネルを通っているうちに、重石のようなものが取れてきたのでしょう。近頃、私の羞恥心も年齢とともに少し色褪せてきたようです。何かに過剰に反応したり、無理に適合しようとする必要もない年齢になったのだという悟りのような諦念のような気持ちが、ジワッと体全体に染み亘っているのに気づきました。こういう変化に自分自身で驚いています。それは私が成熟した証なのかもしれません。いや単に、いろいろなことに考えを巡らせなくなってきたに過ぎないのかもしれません。
恥ずかしさが色褪せてきたこの年になったら、思っていること、感じることを素直に書くという表現行為をしてみるのも悪くはないなと思い始めました。私にとって、少なくとも話すことよりも書くことのほうが、落ち着いた気持ちで表現できるのは間違いありません。
ブログという形式が果して自分に合っているかはわかりませんが、今はこれをひとつの表現手段として利用してみようと思っています。
とはいっても、アイデンティティーなどといって息張って書くつもりは毛頭ありません。64歳という年齢にどこまで正直になれるか、これは私自身へのささやかな挑戦でもあるような気がしています。
小学生の頃からずっと、自分を前に出して主張するのが苦手でした。
特に、人前で話すときはいつも言葉が足りなくて、上手く表現できない自分がもどかしく、嫌でした。学校の授業でも、いつ質問で指さされるか、ドキドキしていました。予期せず指名されたりすると、頭に血が上って取り乱してしまった記憶が今も蘇ってきます。
内面的には前向きで、好奇心の強いほうでしたので、表現をしたいという願望はあったのですが、上手く表現できない反動からか、羞恥心が強く、目立つことにいつも気持ちが引けていました。
仕事に就くようになって、少しは気持ちに落ち着きが出てきました。それでも人前で喋らなくてはならないのは苦痛でした。プレゼンとか司会とかスピーチとかをしなければならない時は、前夜から不安と緊張で眠れないこともありました。始まるまでに額も掌も汗でびっしょりとなり、口が渇きました。一種の社会不安障害であったのかもしれません。
話し終わってしまってからも、自分の思っていることと違うことを喋ってしまったと悔いることはしばしばでした。
話すことに比べると書くことは、まだましかと思っています。話すことは待ったなしで人目を浴びる状況にありますが、それに比べて書くということは、下書きや筋書きを作る準備段階が許されているから、話すこととは決定的に違います。気に入らなければ書き直すというアローワンスもあります。といっても、文字として残されるものに対しては畏れと覚悟が必要です。
公にされるということを考えますと、書くという行為も難しくなります。加えて、豊かな語彙で格調高くなどと意識してしまうと、なかなか流麗には筆が運びません。
話すことが、そして書くことが得意でなくても、時には気持ちが抑えられなくて主張を表に出した経験もあります。しかし、主張すればその責任というのか、何らかの後始末が必ず付きまとうというのも大人になるにつれて知りました。書いたものを発表するというのは大変なことなのだという気持ちの負担も年齢とともに大きくなりました。書くということも私には簡単なことではなかったのです。
年齢を重ねるということは、時間というトンネルを通っているようなものです。つまり、いつも同じところに留まっているということはなく、時の流れに沿ってすべてが変化してくるということです。
時間のトンネルを通っているうちに、重石のようなものが取れてきたのでしょう。近頃、私の羞恥心も年齢とともに少し色褪せてきたようです。何かに過剰に反応したり、無理に適合しようとする必要もない年齢になったのだという悟りのような諦念のような気持ちが、ジワッと体全体に染み亘っているのに気づきました。こういう変化に自分自身で驚いています。それは私が成熟した証なのかもしれません。いや単に、いろいろなことに考えを巡らせなくなってきたに過ぎないのかもしれません。
恥ずかしさが色褪せてきたこの年になったら、思っていること、感じることを素直に書くという表現行為をしてみるのも悪くはないなと思い始めました。私にとって、少なくとも話すことよりも書くことのほうが、落ち着いた気持ちで表現できるのは間違いありません。
ブログという形式が果して自分に合っているかはわかりませんが、今はこれをひとつの表現手段として利用してみようと思っています。
とはいっても、アイデンティティーなどといって息張って書くつもりは毛頭ありません。64歳という年齢にどこまで正直になれるか、これは私自身へのささやかな挑戦でもあるような気がしています。
2010年10月25日 12:09 | カテゴリー: コラム