弓木 すず

ドリンク剤

 今年の3月中旬。インフルエンザの流行が遅くまであり、おまけに特効薬とされていた治療薬について様々な見解が出され、診察に、検査に、説明にと多忙な日々であった。
 昼に公務のあったある日、午後の診療が終了したのだが、まだ書類整理などの残務があり、長時間残業になる気配がして仕方なく駅前のコンビニへと走った。駅前のコンビニは少々狭いが、駅を利用する人や周辺のサラリーマン、OLがよく利用していていつ行っても混んでいる。そのせいかお客さんがぶつからないように一方通行になっていて、床には黒いテープで順路まで記してある。
 夜遅くなりそうなので、できるだけカロリーの少ない葱がたっぷり入ったそばとミネラルウォーターを籠に入れた。そして最後の一品、売れ行きの良いハウスのドリンク剤の「○○○の力」を取ろうとした。その時、スッと私と同じ年齢くらいの男性の手が視界に入った。彼が手にしたものは同じハウスの「うるおい○率」であった。思わず私と彼は目が合ってお互い苦笑いをした。ちらっと見た彼の籠には一人分のお弁当しかなく、紛れもなくそのドリンク剤は彼が飲むもののようであった。「普通、逆ですよね……」お互い目でそう語り合った気がする。気のせいか彼の肌のつや、張りのよさが感じられた。勿論彼がこの後、職場に戻って残業なのか、あるいは帰宅してゆっくり食事なのか、そこまではわからなかったが。
 労働安全衛生法による過重労働が法的に厳しくなり、多残業者の面接が厳しく言われているが、現在のところそれは労働者であり、個人事業主は当てはまらない。開設者である開業医は自分の身は自分で守らなければならない。仕事の時間や睡眠時間、食事の管理、心身の健康、そして少し憂鬱になるけれど老後の生活のことまで。それから忘れてはならない、女性としてのお手入れも。明日からしばらく私も同じハウスのドリンク剤である「うるおい○率」に替えてみようかな……、そう思った。

個人情報保護法が始まったけれど……

 今年の四月、『個人情報保護法』が施行された。各医療機関では、医師会や民間団体主催の講習会に出席して情報を得たり、院内での対策に追われた。そして患者さんのプライバシーを守るため、患者さんに番号札を渡して番号で呼んだり、中待合室を廃止したり、情報管理の徹底など様々な工夫がなされているようである。当院も小さな診療所ではあるが、法施行前にミーティングを行い対策を講じた。
 しかし、中にはそんなことよりも看護師や事務員、そして我々医師との会話を楽しみにしている患者さんもいる。特に開業医では患者さんとの他愛ない会話が大切なこともある。
 例えば家族ぐるみでかかっている患者さんたちに、「お父さんの風邪はよくなった?」 そんな言葉を掛けるのは、自分たちの家族に関心を持っていてくれているのだ……と感謝されることもあったが、それが気軽にできなくなってしまった。
 “ひょっとして、お父さんは家族に内緒で診察を受けに来ているのかもしれない”──そんな事をスタッフも私も真っ先に考えてしまう。何となくよそよそしくて寂しい。
 先日、開業当初からのお付き合いである七十代の男性が健康診断を受けた。その時間は、おたふくと水疱瘡の患者さんがいたので個室が埋まり、問診票にある細かい内容を聞くことができなかった。待合室には他の患者さんもいたため看護師が迷っていたところ、「ここで構わんよ」と平然とした顔で言ってくださった。
 申し訳ないと思いつつ、待合室の片隅で聞き取ることになった。「タバコは吸いますか?」の問いに「はあ? もっと大きな声で言ってくれや!」
 患者さんは周囲を少しも気にしている様子はない。看護師が今度は少し大きな声で聞くと、「ああ、タバコも女も五十でやめた!」
 待合室からくすっと笑い声が聞こえてきた。看護師も少し笑いながら次に既往歴を聞いた。
 「貧血はありますか?」の問いに、「貧血はないけど、金欠はある!」今度は患者さんもスタッフも大爆笑。しかし当の本人は何も気にしている様子はない。
 『個人情報保護法』──始まるまではすごく難しく考えていたけれど、今はその人その人に合った対応をとっている。基本的にはプライバシーを尊重した医療、そして個人情報の漏洩には細心の注意を払っているが、開業医としてあたたかい医療を続けていくには、患者さん個々に合わせた対応も大切なことだと思う。