大崎登志子

疾患の呼称について思う

 精神科に入局して間もない頃、先輩の先生にこんな事を話しました。
 「精神分裂病という病名は、外国語を訳したのでしょうが、あまりイメージが良くないと感じます。何かいい呼び方はできないのでしょうか」とお尋ねすると、同じ思いの人々はすでにいたらしく、
 「確かに響きが良くないから、呼称を変えようという動きはあるのですよ。クレペリン病とかスキゾフレニアとか」
と教えてくださいました。もう20年余り前の話です。
 分裂という響きは破壊的な雰囲気がして、修復、回復が不能というイメージがあるように感じられました。その診断名をカルテ表紙に書くとき、悪いことを宣告するような暗い気持ちになったものです。
 ある若い女の方は、診察時にカルテに書かれた病名を偶然見て、そんな診断をされているならもう二度とこの病院へは来ない、と母親に言ったそうです。
 呼称や用語の問題は、時として、言い換えに過ぎないとか、世の中何かとうるさい事を言い出した、と中傷をされることがあります。しかし、用語というのは当事者でないとわからない心の痛みの問題があり、大切な問題として扱うべきだと思います。

 2年ほど前に、精神分裂病は、統合失調症という呼び方になりました。私はそのとき医療従事者へのアンケートを見て、やっと病名の変わる時が来たのだなあと感じたことでした。
 確かに病気の定義や概念が変わったわけではありません。でも患者さんや家族にとって、診断名を聞く気持ちは随分変わったと思います。患者さんも口にしやすくなったのか、この病名の病気ですかと尋ねられることが増えました。また私たち医療者も話しやすくなりました。
 ごまかした病名にしたということでは決してありません。精神機能の統合、統制がバランスを崩すという病態を適切に表現した呼称だと思います。日本でのこの呼称変更は、大きな出来事と評価したいと思います。

 このほかにも病名で気になることが私にはあります。「悪性」という言葉です。医療サイドから見ると、治療困難な病気はタチが悪いから、「悪性云々……」と意識することなく使います。でも患者サイドで受けとめるとき、悪者でも悪いことをしたわけでもないのに、なぜ「悪性」といわれないといけないのか、また唯でさえ疾患への不安や恐れがある時に、駄目押しするかのような「悪性」とついた病名を聞くのはどんな気持ちでしょうか。せめて「難完治性」、「治療抵抗性」といった表現はどうでしょうか。
 無論人はそれぞれ感性が違いますから、何も気にならない方も大勢おられるとは思います。でも、もし病名を聞くことで、多少なりとも心に痛みや不安を感じ、恐れを募らせる方々がいるとすれば、それは治療意欲にも影響します。
 そう考えるとき、病名呼称の問題は、単に表面的な形式の問題ではなく、医療において医師への信頼関係や、患者さんの治療姿勢に関わる大きな問題だと思います。医療従事者としてこの問題を前向きに考えていくべきではないかと思い、少しつぶやかせて頂いた次第です。

伝える事の難しさ 「何で分かってくれへんの」

 精神科医として14年間の勤務を経験し、40歳で開業し11年が過ぎました。
 最近特に感じていることは、自分の気持ちを伝える事の難しさです。 
 情報の伝達手段はこの10年間でコンピューターを中心に目覚しく進歩し、仕事においてその恩恵に預ることは、多くの人が経験している事でしょう。
 と共に、日常生活においても大きな変化が起こりました。携帯電話、Eメール、携帯メールは 家族間、友人間、サークル活動等で、コミュニケーションの迅速化、円滑化に寄与していますし、必需品に近いものとなってきました。
 デジタルでのコミュニケーションの画期的変化にもかかわらず、当然のことではありますが、生身のアナログでの伝達手段は 決して変わっていません。手書きの文章、会話の言葉、声の響き、表情、時にスキンシップでしょうか。
 言語は比較的分かりやすいものですが、額面どおりに受け止めていいとは限りません。
 私自身、時として、気持ちと異なることを言語化していることがあります。相手の気持ちを察しての善意から、そうすることもありますし、家族に対しての甘えから、理解されたいという思いと理解してもらえないというあきらめや憤りの挟間に置かれたときなどです。
 額面どおりに受け止めたような反応しかない時は、何で分からへんの? 言わなくてもこの顔を見てわかってよ、といった感情が、家族に対して生じてきます。家族という、もっとも理解しうる立場の人間にすら、気持ちを伝えるのは難しいものです。 
 同様に言えるかどうかは分かりませんが、患者さんがその思いを医師に伝えるのは大変難しいことです。
 症状の中でも数値化された検査や所見や、画像となって目で見えるものは相互理解するのが比較的容易ですが、苦痛や不安は、どんな風に辛いのか、どの程度辛いのか伝わりにくいものです。
 そして、精神科での患者さんからの情報は、その多くが自覚症状で、絶対値としての評価がしづらいものです。伝える方はもどかしく、受け止めるのはなおさら難しいものです。
 先生何とかしてーな、しんどうて、しんどうてかなわんわ、何も出来ん、生きとってもしゃあないくらい辛いねん、とエネルギッシュに伝える方もいますし、黙ってため息をついている方もいます。多くを語らないからといって症状が軽いとか改善しているわけではなく、慌しい診察時間の中でどう伝えていいかわからず、伝えることをあきらめている場合もあるのだと思います。自分自身が伝えることの難しさを痛感するようになって、 患者さんが、症状、愁訴を伝えようとすることがいかに難しいかをほんの少しではありますが、分かったように思います。
 伝えることも、伝えようとしていることを受け止めることも本当に難しい、とかくこの世は生きにくい、などと感じてため息の出てしまう日々ですが、「炎の外来術」や「経験と鮮度」を保ちながら診療されている諸姉妹にパワーを頂きながら、ぼちぼちやって行けたらいいなと感じる今日この頃です。