春名 令子

大学時代の貴重な体験

 奇跡のりんご果汁から復活した私。その後は疫病神が消え去ったかのごとく、病気らしい病気もせず元気な子供時代を過ごしました。病気とはほとんど無縁の生活をしていましたが、医学部入学の夢はずっと抱き続けていました。
 大学に入学して、教養部の2年間はとにかく興味のあることにいろいろと挑戦しました。今回は、その中で、今現在、本当にやってて良かったと思う経験を3つお話しましょう。
 その1:クラブは卓球部。勧誘されるがままに食事をご馳走になった恩もあり、知らない間に入部していたという感じでした。そんな中もともと高校時代やっていたマンドリンが忘れられず、友達と二人で「ギター・マンドリン同好会」を作りました。少人数でしたが、合宿やミニ演奏会などしてとても楽しかったです。でも、オーケストラ演奏がしたくて、他の大学のギター・マンドリン部に練習に行ったり、合宿に参加させてもらったりもしました。
 音楽って、ほんとに心が和んでいいですよね。特にオーケストラ演奏の醍醐味、パートごとの練習がひとつの音楽として完成した時の感動は今でも忘れられません。また、ピアノを習っている人は多いけれど、マンドリンを弾ける人ってママさん仲間ではいなかったので、とても重宝がられました。
 子供のピアノの発表会の時に保護者演奏で結構目立つ存在で出させてもらった時は、久々にスポットライトを浴びていい気分だったなあ。子供にも評判がよかったです。音楽の趣味があったおかげで、医師という大変な仕事に加え、子育ても含めた毎日のストレスもうまく解消できたと思います。
 その2:料理に興味がわき始めたのも教養時代でした。高校までは、勉強とクラブ活動中心で、料理なんて興味のかけらもありませんでした。お恥ずかしい話ですが、友人が彼氏にクッキーを焼いてきたのを見たときに、「お菓子って家で作れるの?」と大声を出して驚いたので、みんなに馬鹿にされました。
 もともと色気より食い気の方が勝っていた私ですから、自分で作ろうなんて、そのときには思うはずもありませんでしたが。しかし、そんな私がひょんなことから大変身をしました。大学に入って、お化粧セットを父が買ってくれたため、少し女らしさも出てきたのか、もともと負けず嫌いな性格のためか、ある男子のひとことで、私の料理への興味は一気に膨れ上がっていったのです。
 忘れもしない1年の文化祭の時、わが卓球部は「蜜豆」を出すことになりました。1年が寒天を作って持ってくる役目だったのですが、当然母にやってもらった私は手際も悪く、同級生の男子に「お前それでも女か?」と言われて、かなりショックを受けてしまいました。「小さくて元気で明るく世間ずれしない子」ということで高校時代までみんなにちやほやされていた私にとって、自分自身を完全否定されたように聞こえました。
 でも、それでくじける私ではありません。“その言葉撤回させてやる!”とばかりに、友達が料理学校に通っていると聞いて早速一緒に通い始めました。興味がわけばすごいですね。それから、夕食の準備もたびたび担当するようになり、弁当を朝早くから作っていくようにもなりました。お正月のおせち料理なんか近所の人の分まで引き受けて結構いいバイトにもなりました。もともと男子の多い医学部ですから、パンやお菓子なんて箱にいっぱい作ってきてよく試食してもらいました。勿論、あの1年の男子にも……。
 雑誌の料理コンテストにも応募したりで、専門課程に入る頃には料理の腕はみんなの認めるところとなりました。これは、結婚してからの生活や、今の栄養指導や離乳食指導などに具体的にアドバイスできてとても役立っています。
 その3:最後に、一番印象に残った体験をお話しましょう。ある日、付属病院に中期(?)入院の子で院内学級の対象にはならない子供たち対象に勉強を教えようというボランティア活動の話が持ち上がりました。子供の好きな私には当然声がかかり、やる気満々で授業の合間を縫って教えに行っていました。病気の子供たちの役に立っているということで、医学を目指す私にとってもかなり有意義な時間でした。
 病気の子は、勉強が遅れる焦りというより、慢性疾患で入退院に慣れている子が多く、開き直っているようなところもあったけれど、自分の置かれている状況を子供なりに悩んでいたりして、相談相手みたいな存在でもありました。子供たちも姉のように慕ってくれるし、小児科医になる夢は益々膨らんでいくばかりでした。
 その子達が退院してから、お礼の手紙をもらった時は、胸がジーンときました。このときの体験は、入院中の子供や慢性疾患を持っている子供たちを理解するのにすごく役に立ちました。その上そのような子供を抱えた両親とも交流があったので、親の気持ちもすごくよくわかりました。
 これは医学部では教えてもらえないことですし、医師になってからではここまでの理解をする余裕もなく、治療に当たっていたと思います。このことが研修医時代の私の活躍にさらなる火をつけました。この話は後日のお楽しみということで……。
 大学時代、まだまだいろいろとありましたが、今話したことは医師になっても親になっても、本当にいい体験だったと今でも実感している今日この頃です。

奇跡のりんご果汁

 「お顔があつい!」──3歳のある日、私は風邪をひいて高熱を出しました。母はあわてて、近所の医院に私を急いで連れて行きました。
 「ただの風邪ですよ。薬を出しときます」と言われてお薬をもらいましたが、何日経っても微熱から下がらず、元気がありませんでした。何となくボーっとしていたのです。再び医院に行き、様子がおかしいと訴えました。「熱がないので、たいしたことはありませんよ。そのうち治るでしょう」とだけ言われて、半分納得できずに追加のお薬をもらって帰りました。
 しかし、様子を見ていても良くなるどころかどんどん悪くなっているようでした。そのうちに、全く元気がなく、目つきもおかしくなってきたので、心配になった母は急いで大学病院へと私を連れて行きました。そこでは、私の様子があまりにもおかしいので、多くの患者さんが待つ中、すぐに診察室に通されました。
 「命の保証はできません。助かる見込みは少ないですね。助かっても後遺症を残すことになるかもしれません。私どもも精一杯の治療をしますが、お母さん、覚悟はしておいてください」
 まだ、20代前半の母は、一瞬血の気が引き、意識が遠のいたそうです。そして、どうしていいのかわからず、ただただ泣いてばかりいたそうです。若い父も、母を支えつつもとにかく神頼みということで、その日から毎日私のために小さな弟を連れてお百度参りをしました。
 そして、つらい病院生活が始まりました。一日おきの背中の痛い注射。同病の隣室の子供と交互に泣き叫び、泣き声を聞いては明日は自分だと思う恐怖感、注射当日突然母親がいなくなり、白い服を着た人たちが私の体を押さえ込む恐ろしさは、今でも不思議と覚えています。
 母は、寝たきりの私のそばにずっといてくれました。ある日、食べ物もほとんど口にできず、意識も半分ないような私をみて、自分も何かしてやりたいと思いました。そして、自分ですったりんご果汁を、私の口に恐る恐る少しずつスプーンで運んでみました。すると、泣く以外にほとんど反応のなかった私が、りんご果汁には美味しそうに口を動かして反応したのです。
 「令子の体が私のりんご果汁を求めている!」
 母は自分の信念で毎日毎日りんごをすっては私に飲ませました。そして、ついに奇跡の時が訪れたのです。「退院おめでとう。後遺症もなく回復したなんて、奇跡に近いです。ご両親もお子さんも良くがんばりました」。
 その後、私は何度もこの奇跡の話を聞かされて育ちました。そして、熱心に治療してくれた先生方の話も。当然のように、私の将来の夢は自然に決まりました。救ってもらった命を生かして、私も苦しんでいる子を一人でも助けたい! 私の仕事はこれしかない!
 小児科医になる決意を固めた私は、数年後、医学部に合格しました。そして、当時の先生に会いに行きました。勿論、ご高齢で個人的には覚えておられませんでしたが、とても感動してくださいました。子どものときの感謝と、今度は私が多くの苦しんでいる子を助けたいという決意で医学部に入学したことを話しました。病気になって21年後、私は小児科医になりました。
 今は、子供が三人もいて、仕事も家庭も充実しています。今、ここに私が存在するのも、あの時の熱心な小児科の先生方がいてくれたのと、両親の強い愛情があったから。それと、母のりんご果汁も……。