銀 あんず

グッピー日記 第3のちから「奮闘力」

 いやな事はいや。苦手なことは苦手。少しは努力もした。時間もかけた。けれどやっぱり、いやな事はいや、苦手なことは苦手。できない事はできないのである。だったらそれを受け入れるしかない。これが自分自身だと諦め、納得するしかない。そして、こんな私と私は死ぬまで付き合う。付き合っていると結果が出る。どうもその結果が今であり、この人生を歩ませているのが「ぐうたら力」のようだ。
 いやだとか苦手だとかに理由をつけるのは難しい。直感的にいやであり苦手である。そう、私には、ぐうたら力以外に「直感力」がある。医者仲間からも私の直感力は認められている。この力を診察に発揮するとすごいと驚かれる。ただあまり直感がすごいと誉められると馬鹿にされているように感じる。お勉強はできないのにね。と後に続きそうで。
精神科専門医試験を受けたほうが良いと直感力が働き、ぐうたら力が小さくなった。
 でも試験を受けるのは、いやだ。だいたい試験に運もなく1度で受かることが少ない。ぐうたら力が強まってやる気が落ちるからだ。きっと。中学入試は失敗したし、高校も危なかった。もちろん大学も。自動車の免許も2回受けた。あんまり落ちるので両親はひどく心配していた。母は「家庭教師を付けよう、塾に行きなさい。」と言い、父は、「やればできるのだから。要領が悪いだけだ。」と慰めてくれていた。そういえば、珍しく医師国家試験は1回で受かった。ぐうたら力と直感力以外の何か違う力が働いたのか、すんなり合格した。第3の力。例えば、「火事場の馬鹿力」のようなやつが働いたらしい。ひとまず「奮闘力」と呼んでおこう。
 今度の専門医試験絶対に1回で受かるのだ。精神科医としてやってきたのに落ちるなんてことは許されない。しかしいまさら試験を受けろなんて学会も失礼なことをするものだ。冷静に考えると腹が立ってくる。大学のありかたが変わっていく過渡期のできごとと割り切ることにしても。試験に弱いからよけいに不愉快である。気を抜くと危ないので自分で自分のおしりを叩く。第3の力、奮闘力を出して絶対に1回で合格だ。
 1次試験は3症例をレポートにして提出。途中診断に迷いが出た症例があって悩んでいたら、七十代の大先輩に、「まだ専門医がいないのだからあなたの判断が専門医の判断でいいんじゃない。」と言われた。それもそうだと決断した。気負いすぎても失敗しやすい。緊張すると力も出し切れない。リラックス、リラックス。
 最近グッピーは元気でどんどん増えている。水槽の中で小さいの大きいの中ぐらいなのが行ったりきたり、上へ下へと泳ぎ回っているのを見るのは楽しい。猫や犬と違って撫でることができないけれど、水槽に手を入れると簡単にすくえる。夜店の金魚すくいより簡単にすくえる。うれしくなって独り言をいったりしていると肩の力が抜けていく。
 小さい物、かわいいもの、柔らかいものを見たり触ったりすると顔の表情も和らぐ。優しい顔、笑顔が出ると緊張もほぐれる。グッピーはかわいい。
 1次試験合格。ぐうたら力をぶっとばす強い力。第3の力が有効に働いた。良かった。
 次は2次試験。面接。面接会場は新大阪駅近くのホテル。早めに会場に行くことにした。いったい何を質問されるのだろうか。簡単な精神科の常識レベルと先輩は言っていたが、これが怖い。簡単なことは常識過ぎてうろ覚えだったりするから。「妄想とは?」、と質問されしどろもどろになりそうな、いやな緊張感が漂う。
 顔見知りの先輩達に会う。みんな院長だったり、部長だったり偉い人達だ。私が教えて頂いた先生方であるが、先生達も面接を受けるのだ。まさか落ちるようなことはあるまい。落とせないと思うが、先生達も一様に真剣であった。症例を集めるのが大変だったとか少し落ちるらしいとかひそひそと話す人、大きな声で幾分興奮ぎみに話す人、面接で聴かれそうなことなど情報交換が行われていた。いくつになっても試験会場の雰囲気は変わらない。時間になってみんな控え室に集められた。一人一人呼ばれては、係りの女性にエスコートされ面接室に連れて行かれる。面接が終わっても控え室に戻れず、そのまま帰らなければいけない。だから終わった人の面接内容は聴くことができない。本格的な面接試験に緊張感が高まった。いよいよ私の番だ。
 試験官は3人。提出したレポートからの質問だった。それは、うつ病のケースであった。印象をよくして謙虚に答えるつもりであったのに、試験官の一言が臨床への思いに火をつけてしまった。うつ病の性格についてのことだった。試験官の言うことには納得できかったし、その試験官はレポートを一部しか読んでいなかったため的外れな返答をした。面接を受けるほうは、自分をさらけ出されているのに、試験官は名前すら名乗らない。試験という対等でない場であるが、その試験官の資質を疑う状況にますます熱くなってしまった。しかし議論をしにきたのではないので、ここは丸く納めて平静になり気を静める方向へ話を持っていくことにした。熱くなって冷静になって面接は終わった。
 疲れた。レポートに取り掛かってから面接までの5ヵ月が終わった。面接がどんな結果になるのか分からないけれど、この5ヵ月、精神科を見直す良い機会になった。試験官に面接で思わず立ち向かってしまったけれど、自分のいままでの経験が無駄でなかったことを認識させてもらえた。自信がついた。
 気がかりな2ヵ月が過ぎた後、合格通知がきた。

グッピー日記 「ぐうたら医者の決心」

車を運転しながらなにげなく口にした自分のことばが頭のすみに残り、その場面が映画のワンシーンのようにして蘇ってくる。
 「長いこと精神科医をしていて、今では精神科しかできないけれど、こんなので良いのかな。」
 ある研究会の帰り、たわいもない話を助手席の友人としていた時ふと出たことばである。友人は同い年の同業者で、私は彼女に誘われて研究会に出席していた。その帰り道のことである。友人は大変忙しい。私は精神科医でしかないが、彼女はそれに加え妻であり母でもある。それでも時間をやり繰りしては、研究会や講演会に行っている。それに比べ私は、時間もあるのに何をしている事やら。こんなぐうたらで良いのかな。この程度かな。
 人生を絨毯に例えた作家がいて、小説の主人公に「人は人生を紡いでいる。」「自分の人生は自分で織り上げている。」と言わせている。なるほど、確かに私の絨毯は、縦糸の時間は彼女と同じでも、描き出した絵柄はかなり違っている。織り込まれている共通の糸は、女と精神科医。最初はさほどでもなかったのに、時が進み作品の三分の二を織り上げてしまったら柄の違いがはっきりとわかるようになった。私のはぐうたらしていたぶん色のすくない単純な柄になっているように思う。彼女のは複雑そうだ。それぞれの人生。比較して良し悪しをつける事もできないしその必要もないけれど、ついに残り三分の一を織るだけとなったら絵柄が気になりだした。今まで織り上げた柄は、気にいらなくとも受け入れるしかない。しかし終わり良ければすべて良しということばもあるように残りを納得のいく絵にしたい。少し欲がでてきた。
 私の絨毯には、グッピーのことも4年前から織り込まれているはずだ。いやもう少し早いかもしれない。出会いはもっと前で高校時代にさかのぼるから。
 16歳のとき釣り好きの友達がいた。私は魚を釣ろうと考えたこともなかったが、ミミズやゴカイを素手で扱い、釣った魚の針をはずすことができる友達であった。釣りをするのだからあたりまえだけれど私には経験のないことだったので驚きであった。
 彼女は、山の手の広い庭のある家に住んでいた。静かな住宅地でそこにいく電車には、すずらんのシャンデリアが下がっていた。春は桜並木がうつくしく、夏には駅前で金魚すくいの店がでていた。私が、「すくわれる金魚が可哀そう。」というと彼女は「そう思う人に飼われたら救われる。」と答えた。そういう彼女は金魚ではなく、グッピーを飼っていた。これがグッピーとの最初の出会いである。昭和40年代の話である。稚魚が育たないと、彼女が嘆いていたことを思い出す。今のように熱帯魚の飼育道具が進んでいなかったから難しかったのだ。高校を卒業して釣り好きの友達は薬学部に進み、私は医学部にいった。
 やっぱり残り三分の一の絵柄は、今までの柄をいかし、天空に広がっていくようなものにしたい。これまでも今も精神科医であるけれどこれからも精神科医であり続けるのだから、絵柄の中心はもちろん精神科医の私。そして今まで一番続いたことへの決着をつけ、さらなる飛躍を目指す。
 となるとやっぱり受けなければいけないのだな。いやでもその流れに乗ってしまっているようだから。落ちたらどうしようと自信がなかった精神科専門医認定試験。受けることにしょう。精神科医の証として。

グッピー日記 泳ぐ宝石

 風薫る五月。バラの季節でもある五月。クレマチスとバラの饗宴がみられる五月。しかし、我が庭は、咲き乱れるはずのもっこうバラは咲かず、クレマチスは咲いたが三輪で、なんとも寂しい五月の始まりとなった。
 グッピーまでも元気がない。注意して水換えもしているのに動きが悪く、おとなし過ぎると心配しだすころにはすでに病気に罹っている。原因はおそらく水質の悪化だ。餌の残りや排泄物が汚物となって水槽の底に溜まり、水換えだけでは水質を良好に保てないのだ。
 これを改善するには水槽を丸洗いするしか手がない。水が57kg、水草を植えるのに底の石を厚く敷いたので簡単には動かせない。全体の重さは100kg超である。中には、グッピーが成魚から赤ちゃんまで40匹ぐらいいる。
 水草を移しグッピーを移し、石を洗い、水槽を洗う。重くてしんどい。時間もかかる。それでも、グッピーを生かそうと、がんばる。生き物なので手が抜けない。根気も集中力も体力もいる。清潔にしすぎてもいけない、そうしないと善玉微生物がいなくなる。水温、水質とグッピーの住みやすい環境を作る。グッピーを飼って得た教訓。日本で熱帯魚を飼うのには、気力、体力、知力、観察力が必要である。もちろん経験も。
 たかが熱帯魚だけれど、人間相手より力がいる。どうしてかと言うとしゃべってくれないからだ。でも不思議なことに力を使うわりには疲れない。楽しいぐらいだ。しゃべってくれない人や、しゃべっても意味の通じない人を診る仕事は、ものすごく疲れるのに。特に肉体の疲れより精神の疲れかたがひどい。人間相手だとどうして疲れるのかな。本当に疲れる。
 最近、光もののアクセサリーを買わなくなった。古い物は、あまり使わないからと妹にあげたり病院の夏祭りに寄付し景品として使ってもらったりしている。気に入って大切にしていたアクセサリーもすんなり処分できる。未練はまったくない。今は、泳ぐ宝石があれば充分に思う。
 殴られ、蹴られ、怒鳴られ、叱られ、ものすごく疲れても続いているこの仕事。患者さんの状態によっては身の危険を感じることもあるし、その家族からは、いろんな苦情をぶつけられることもある。それでも続いている精神科医としての仕事。自分で選んだ仕事なのだから当たり前と言われればそれまでだけれど。今も選んだことを後悔はしていない。これで好かったとも思っている。ただちょっとここまで続いたことを考えてみたい心境になった。あのJRの事故をテレビで知ってから。
 宝塚も尼崎も自宅の近くで福知山線も利用する。阪神淡路大震災の時はよく使った。尼崎駅でいつも乗り換えていたが、尼崎駅に着くと焦って乗り換えていた。電車が待っているので乗り移ったとたんドアが閉まり発車してしまうこともあった。乗り換えの待ち時間はなくなったけれど、機敏に反応しなければ乗り損ねてしまう。こども、老人、障害のある人には危険な駅になったと思ったりしていた。私以外の利用者も同じようなことを感じていたと思う。そこで働いていた人も分かっていたと思う。そんな思いを持っていたのだけれど、あのような事故が起こるとまでは予測できなかった。
 私はテレビを見ていて、あの電車に乗ろうと自分で決めた人の運命が生と死に分かれたことや、自分自身も危険を感じていたにも係わらずそれ以上何もしなかったことに、人には操作することのできない力の存在があることを知った。車の中で練炭火鉢をかこんで死のうとする人達もいるけれど、電車に乗り合わせた人達は死など考えてもいなかったにちがいない。安心して電車に乗っていただけなのだ。しかし死が待っていた。それぞれの人生はそこで終わってしまった。死に神に選ばれた人達に続きはもうないのだ。
 私の仕事が続いているということは、私が生きているということなのだった。それも自分の意志と意志以外の力も作用して、私は生きているのだ。望む望まないにかかわらず生かされているらしい。生かされる力を無くした時この世との縁が切れるのだろう。いったいどこから生かされる力はくるのだろうか。自分の意志をも超えて。操作することができない力の前には、身をゆだねるしかない無力な私である。
 グッピーの世話ができ、仕事が続けられることに感謝しつつ、事故で亡くなられた方々へ合掌。

グッピー日記 暑い夏

 外は暑い。エルニーニョに近い状況が起こっていると天気予報で言っている。日本だけでなく世界中で異常気象らしい。鳥インフルエンザも再燃している。
 でも家は涼しい。これもかわいいグッピーのおかげ。熱帯魚とはいえ、水温が30度超えると生命の危険がある。午前中に30度を超えそうになるので、28度を超えないようにクーラーを入れ扇風機で風を送っている。水槽を覗くとチョロチョロと元気に泳いでいる。一匹一匹、目で追いかけ、元気か大きくなったか確認していると、時間の経つのを忘れる。時々目線があったりもする。
 何考えているのだろう、と、こっちは思う。むこうは、あんた誰? とでも言いたそうにこっちを見ている。お互い声に出しては言わないけれど。
 毎日毎日暑い。うだるような暑さ。体温を超える暑さは、雨が降らなくても湿度を感じる。人間の発汗で湯気がたち湿度を上げるようだ。不快指数100%。
 そうだ、こんな感じの暑さを前にも体感した。それは確かあの夏だった。堆積した記憶の中から1995年の夏が呼び起こされ、はっきりとした映像にその時の心情を伴って、最も新しい意識の中に浮かびあがってくる。
 それは、阪神淡路大震災後の最初の夏だった。自然の力に叩きのめされ、もう春も夏も冬もやってこないのではないかと漠然と思っていた。しかし菜の花が咲き、桜が満開になり梅雨にもなって、いつもどおり夏もやってきた。そして、私は精神科医として仮設住宅の訪問をしていた。心のケアーと称して。何に対してか分からなかったけれど。一生懸命、急きたてられるように、訪問を続けた。気が急いていた。
 暑い夏だった。でも梅雨に雨はよく降ったので水不足ではなかった、1995年の夏は。1994年は雨が降らず水がなかった。この年は夏も冬も雨が少なかった。それで貯水池も川も水が底をついていた。地震の時、火事が発生したけれど、それを消し止める水がなかったのだった。電気やガスが止まる以前の問題で、前年度の雨不足が震災の被害を増長したのだ。なんともいえない自然の恐ろしさを感じていた。
 今では、仮設住宅もなくなり震災の話もしなくなったけれど、この体験はからだの中に残っている。普段は意識しない記憶として、無意識の記憶の中に収納されているようだ。
 ことば、音、雰囲気など、些細なことで呼び覚ますことのできる記憶として残っている。
 自然という、自分では制御することのできない大きな力に恐怖を感じ畏敬の念を抱く。それは我々の先祖が抱いた感情と同じなのだ。あの時、古代の人々と同じ気持ちになったのだ。どうしようもない力に出会った時、何を信じよというのか。少々頭の動きがにぶく、心の感受性も低下していたように思う。
 心のケアーといって仮設住宅を訪ね回ったけれど、このことの意味や意義はまだ良く分からない。心の奥底で眠っていて、ことばで表現する状態にいたっていない。熟成する時間が必要に思う。
 涼しい快適な部屋でグッピーと遊んでいる。今、この平安は私とグッピーだけで作りだしているのでなく、森羅万象の作る偶然の集合なのだと思う。あの夏から9年が経ち、自然の力に対して立ち向かうだけでなく受け入れるゆとりもできたかな。心の成長はしたように思う。なにはともあれ、精神科医はなんでも自分の栄養にして成長していくのだ。

2004年8月3日

グッピー日記

 今日はグッピー日記の事始。思いつくままに書いてみよう。
 もう3月。この歳になると時のたつのは早いものだけど、記憶が濃縮された感じがするのは、紅白歌合戦を2月に観たせいだと思う。紅白イコール大晦日と刷り込まれているからだ。テレビの影響は恐ろしい。
 夜が明けるのも早い。グッピーの水槽を朝日が照らすようになった。この光を受けてグッピーの胴体部が銀色にきらっきらっと光る。隣の水槽では金魚が底石をチャリチャリと音たてて突いている。去年まではグッピーの水槽にも金魚がいた。黒、赤、白の3色の朱文金が、長いフナ尾をゆっくり動かして泳いでいた。
 次第に弱っていく朱文金をみて、何とか助けたいと抗生剤を使ってもみたが、だめだった。
 生ごみとして捨てるのには偲びがたく、ちいさい時のようにお墓を作った。手のひらに載せるとはみでた。体長20cmは充分にあった。猫の額ほどの小さな庭にある松の根元に埋めた。時がたって朱文金が松のこやしとなり、木の命として蘇ることを祈って。
 知人の話──。
 14年生きたヨークシャテリアは、最後は痴呆になりおもらしをしていた。
 10年生きた雑種犬は、飼い主の運転する車に轢かれ、重体だった。
 2年生きたハムスターは腸炎を起こし、獣医に掛かった。
 ハムスターが獣医を受診した日、教授との懇親会だったが、飼い主は欠席。教授に「彼女はどうしたのですか?」と聞かれ、「ハムスターが重病で、今病院に連れて行っています。」と答えた。
 3人の飼い主は、精神保健指定医をめざしている。人と動物が同等と言われると少々考えてしまうが、命の大切さを本の上だけでなく体験していてほしいと思う。
 今日も鳥インフルエンザがテレビで取り上げられている。眠るように死んでいく1万羽の鶏を想像することは困難だ。どうしてこんな事が起こったのだろうか。人だと、うがい、手洗い、体力を落とさない事、人ごみに出ない事、ワクチンをすることで自発的に予防するだろうけれど、鶏だとそれは無理だ。人でも罹る人と罹らない人がいる。罹っても軽くすむ人もいれば、死に至る人もいる。
 そんな事を考えていると、4年ほど前の老人保健施設のことを思い出した。その施設では、お年寄りが次々とインフルエンザに罹り、ばたばたと死んでいった。体力のない弱った人は罹れば重症になる。この年は老人の施設でインフルエンザが蔓延しお年寄りが死亡するという二ユースが多かった。鶏といっしょにしたら不謹慎と言われそうだが、何か共通する問題があるのではないかと思った。今年は、SARSも流行るといわれていたけれど、どうなったのだろうか。
 鶏にとっては受難の年となった。いつも兵庫県産の卵を食べているのに丹波で発生した鳥インフルエンザのために、鹿児島県産の卵を食べている。いつもの卵が出荷できないからだ。毎日産み落とされる卵はどうなるのだろう。機械だとスイッチを切れば終わりだけど、鶏はそうはいかない。人に食べられて初めて使命を果たす鶏と卵。人を守るためとはいえ殺され、破棄される鶏と卵、空しく哀れだ。
 人のインフルエンザは温かくなって、湿度が高くなると収まってくるが、鳥のはどうなのだろうか。タイもベトナムも日本より暖かく、湿度も高そうだけれど流行っている。もう少しがんばれば暖かくなるからウイルスも活動しなくなるのか。テレビや新聞の情報ではこの疑問を解決してくれない。どうすれば、良いのか。今の時代、インターネットで調べるのが常識?
 2月になって新しいウイルスが発生したとメールが届いた。あんまり新型ウイルスが次々と生まれるので、パソコン使うのがいやになった。コンピューターウイルスは、やっかいで不愉快、それに怖い。人にうつしたくない。インターネットもメールも使いたくない。でも、せっかくパソコン買ったのに、我ながらもったいないと思う。
 コンピューターウイルスに免疫ができ、すぐに対応できるようになるまで予防的手段として、接触を避けてみよう。だけど置いているだけで使わないと、機械は故障しだすので何とか使わないといけない。となると日記かな。
 日記はたいがい続かない。三日坊主。それでもなんとか続けよう、パソコン日記。最近毎日続いているのは、グッピーの世話。今日、稚魚が生まれていた。ちっちゃくてかわいい。グッピーって不思議、魚なのに子供を産む。そうだ、この観察を兼ねて書いてみよう。少々大げさだが、名前もつけて、「グッピー日記」。
 2004年3月2日「グッピー日記」の始まり、始まり。

白と赤

 秋は紅葉。山の緑が赤や黄色に移っていく様子は、次に来る冬のモノトーンの世界を忘れさせてしまうほどの美しさ。春は桜。菜の花の黄色、桜のピンク、つつじの赤、花の饗宴が始まり夏の緑へと主役を交代する。そして秋。自然が生み出した色の組み合わせをクリスマスの飾りつけが始まる頃、私は装いにちょっと利用しています。
 この時期の私の装いのポイントは足元です。ブーツでなくカラータイツをはくことです。洋服や靴との色の組み合わせを考えるのは楽しい。足首が濃い色になって、ふくらはぎが薄くなっているのはみっともない。柄が伸びて変形しているのはもってのほか。色も柄も慎重に選びます。
 職場では白衣を着るのですが、白衣に合わせてタイツを選んだことはありません。白衣は職場で着るものですから。女性の看護士さんは、自分たちでユニフォームを選んでいますが、私は選んだことがありません。いつも同じデザインの白衣です。変わったことといえば20年の間にサイズがMからLになったことぐらいです。男性医師も私と同じ白衣です。医者の場合、白衣に関しては男女平等です。
 私の白衣はかなり汚れます。カレーうどんやスパゲティを食べたことがすぐに分かります。ルーを飛ばしシミを作るからです。袖口を味噌汁に突っ込んだりもします。インクのシミがポケットについたりもして、白衣が不潔なしろものとなっています。食事の時は白衣が必要だけど診察の時はいらないように最近思ったりします。ナースキヤップのように。
 男性医師はどう思うでしょうか。男性の意見も聞いてみました。後輩の精神保健指定医をめざしている卒後4年目の男性医師には、まったく興味のない話のようで、「どちらでもいいです。」と返事がありました。
 白衣の着用は医師法で決められたことではありませんが、精神保健指定医の資格は精神保健及び精神障害者福祉に関する法律に定められており、厚生労働大臣からもらうことになっています。これがないと精神科の仕事がしにくいです。人権に関わる行為をする時や精神鑑定の時に必要です。私も持っています。5年以上の医療経験を持ちその内3年以上精神科臨床に関わっていないと申請資格もありません。講習を受けたりレポートを書いたり、なかなか面倒です。落ちる人もいます。
 白衣を脱いで診察室に座っているのには、どんな服装が似つかわしいでしょうか。医者として患者さんと向き合う大切な場面です。おろそかにできません。
 緒方貞子さんのようにシックなスーツに胸元にゴージャスなネックレス。それとも川口順子外務大臣のように真っ赤なスーツ。川口外務大臣の勝負服は赤だそうです。場の雰囲気や治療者の相手に与える印象が治療に影響を与えるので、精神科的には服装にこだわるのも意味のあることなのです。
 もう一度指定医をめざす青年医師の意見も聞いてみましょう。精神科医は視診から得た情報を治療に生かすセンスも必要です。
 「スーツというのは無難ですね、どんな場所でも。」と私。
 「シテュエーションによって違いますよ。」と彼。
 「でも一番あたりさわりがないと思うけど。」と私。
 「シテュエーションによって違いますよ。」と彼。
 「たいがい大丈夫でしょ。」と私。
 「ナンパや合コンだと浮きますよ。」と彼。
 「ナンパや合コン」、「ナンパや合コン」、「ナンパや合コン」──私はことばを失う。ほぼ同時に脳に軽い衝撃が走り思考は停止する。そのあと胃袋あたりで自問自答が始まる。(ゥん、この衝撃は何、アレ、何なんだろう、このギァップ、トシの差かな。いや、冷静に冷静に。)
 その間5秒ぐらいだと思うけれど、私は診察室にいる時のいつもの静かな口調で「そのような事もありますねェ。」と答える。
 この衝撃結構強い。脳が正常に動きだすまで、診察室での勝負服は白衣にしておこう。

医者の鮮度

 私は精神科の医者です。家族は私と金魚とグッピーです。花も少し育てています。
 音楽も好きです。小さな頃はピアノを習っていました。
 私が医学生だった頃、山口百恵、森昌子、桜田淳子の3人が「花の中三トリオ」と呼ばれ、山口百恵は「あなたが望むなら何をされてもいいわノノ」と歌っていました。
 この時代も、かわいくって、むじゃきで罪のない若い女の子がアイドルでした。この流れは、おニャン子、スピード、モーニング娘。と続いていると思います。若い、言い換えれば未熟さが持てはやされる土壌がこの国にはあるのでしょう。
 私は自分の生き方は自分で決めたいと思い、またそのように教育もされました。人の意見、考えを聞くゆとりが欲しいと思っていました。それから納得して将来を選びたかったのです。特に経済的な問題で生き方を変えたくはないと考えていました。これは医者になった理由の一つになっています。
 けれど、その当時、自立した女は縁が遠のくとか、結婚相手を探しに医学部に来たとか男子学生には言われました。1970年代の話です。
 医者になった頃、平和な日本はバブル経済の中にありました。そしてすでに第二次世界大戦は、活字のうえでのできごとになりかけていました。
 ちょうどそんな時、中学1年の横田めぐみさんは、世界一安全な国から連れ去られたのです。驚愕と憤りを感じます。彼女の若さが、この感情に拍車をかけます。
 若さは未熟であり未完であります。未知の可能性を他者に決められ、利用されるという事態に心を強く掻き立てられます。
 若い時の経験は、人生を左右するほどの意味があります。しかし若さの可能性も、平和の中にあってはじめて実現できるのです。個人の思考は、その属する社会とけっして無関係ではありません。
 今の私は、若さからは遠く、しかし骨董品の値打ちがでるところまではいかず、石原都知事が外務大臣時代の田中真紀子さんを評した腹立たしいコメントによると、暦年齢では更年期です。
 だけど更年期のひとことで片付けられては納得できません。
 仕事を続けたいと思っている人はみんな、いろんな努力をしていると思います。これでよかったのかと、何度も考えることでしょう。男も女も若きも年寄りも。特に年取った女は。
 私は、今までの経験の裏打ちを力の源とし、感性鋭く医者としての鮮度を維持していきたい。その努力を続けたいと思っています。