"ろっこうグリル"の女主人

 私にはとても贅沢な、幸せな一時があった。それは隣人のおばちゃんの作ってくれた料理を食べる時だった。
 彼女は大正12年に神戸の裕福な貿易商の家に生まれ、六甲山で毎夏避暑をし、世界各国の駐在家庭子女にもまれながら育った。イギリス人に料理を習い、ダンスパーティを開き、皆がもんぺ姿の昭和17年に生田神社でウェディングドレスを着たという強烈な自己主張の持ち主。離婚後、商社の駐独支社長の婚約者として渡独。結婚直前に相手が急死してしまったが、こんどは中国人の大富豪に「城を買ってやる」とプロポーズされるも拒否、プレゼントにもらった特別仕様のベンツを売り払ってそのお金でアメリカを横断旅行。
 東京オリンピックの年に帰日、10年ほど前まで南青山で“ろっこうグリル”という、洋風家庭料理レストランを開いていた。婦人雑誌にグラビアの料理記事を書いていたこともある。知る人ぞ知る小さな店だったが、英語、独語が喋れると外国人にも人気があった。
 親友の眼科医がその店に連れていってくれたのがもう20年ほど前になるだろうか。飾っていないけれど本質的に手をかけた料理にぞっこんになり、上京する度に通った。ある時彼女の視力が白内障で落ちて来て、レストランを続けるのが難しくなったが、親友の夫のこれまた有能な眼科医が手術を引き受け、無事視力を回復して復帰した。
 数年が過ぎ、店の賃貸契約が切れ、店を畳んだ。リウマチでだんだん手足が不自由になってきたが通院もままならず、ひっそりと一人暮らしていた。電話しても出ないと、どうしているのか心配ばかりするのが嫌で、“手足のことならこんどは私の出番”と彼女を名古屋の病院に入院させ、手術してしまった。
 退院後は隣の部屋に住んでもらうことにしたが、ちょうど息子の小学校入学に重なって学童保育終了後の帰宅場所となり、仕事で帰宅が遅くなっても安心だった。料理に対する姿勢はいつも厳しく、40年以上も使い込まれた料理道具は磨き込まれ、手が不自由になっても鍋は焦げ付き一つなく、包丁はいつも切れ味を保っていた。
 日曜日の朝、息子のお決まりのメニューは彼女手製のメープルシロップをかけたパンケーキだった。私の友人が集まるホームパーティーには、ゼラチン質たっぷりのチキンサラダ、作るのに21日間かかるドミグラスソースのビーフシチューなど彼女が腕をふるってくれた。ストロベリーチーズケーキ、ミントアイシングのオリジナルチョコレートケーキなど感涙もの。彼女の数多いレシピは私の宝物になった。
 彼女の波瀾万丈の人生から生まれた鋭い観察眼と言葉には重みがあり、私や友人たちのよき相談相手にもなってくれていた。不思議な縁がもとで彼女の生涯の終わりを看取ることになった。支援して来たつもりが、支えられているのは実は私の方であった、ということに彼女を失ってから気付いた。