身体表現の摩訶不思議

 私は東洋医学診療を長年阪神間で続けてきたが、約2年前に郷里の淡路島で、50年間開業医をしてきた父親の後を継承し、父の内科患者も診ることになった。80歳台の父親の患者もまた相当な老人で、若先生の私はそれらの人達の話に日々耳を傾ける。
「どうされましたか?」「ここがつらいんじゃ」と胸に手を当てるある老人。心電図でも異常がなく、狭心症の薬も効果がない。嫌な予感がして胃カメラで検査したら、大きな潰瘍ができていた。
 また別の老女は「ここがしんどい」とお腹をさする。胃炎か腸炎と思ったが、何となく皮膚がむくんでいるので、下肢を指で押すと浮腫がある。胸部レントゲンを撮ったら、右心不全になっていた。
 久しぶりに来院した男性老人は「背中がえろうてかなわん」と肩をたたいている。つらそうな顔ではないが、同行した息子が一晩中ソワソワしていたというので、何か変だぞと近くの病院へ紹介したら胃穿孔をおこしていた。
 これらの老人達は極端にボキャブラリーが少ない。行動範囲が狭く、農業など自然を相手にする職業を長年していたら、以心伝心ですべてが解決するのか、自分を伝える言葉は何通りかあれば十分らしい。病気の訴えも「しんどい」「つらい」「えらい」、場所も「ここ」、「あそこ」と指差す程度にしか言わず、しかも実際の病変と違う部位だったりするのだ。はじめはボケているのかと失礼なことを考えていたが、だんだんと身体表現が古風なだけだと気がついてきた。現代風であれば、多分「胸から、胃の辺りが気持ち悪い」と具体的に言うところを、「ここがつらいんじゃ」と胸の辺りを指すだけですませてしまっているようだ。とにかく訴えのある小さな部位で判断しないで、大きく全体を見て考えないと、とんでもないことになるし、端的な言葉から多くを読み取らねばならない。
 でも待てよ、これって漢方診断技術と同じではないか。部位をみて、気血水や五臓といった全体を考えるというのと、「ここがつらい」の一言でも全体の病気ではないかと考える、メカニズムは同じだ。漢方診療には「不問診(ふもんしん)」といって、最初から全く患者から話を聞かずに、脈診、舌診、望診(患者をながめて診察する方法)程度だけで処方するやり方すらある。さすがに現代漢方医でそこまでする達人(変人?)はみかけないが、数十年前まではそんな名医もいたらしい。
 EBMを問われる現代医療。私たちは日々診断のための具体的な根拠を追い求めるクセが色濃くついている。しかし外来診療において、患者から伝わってくる何かへんだぞという気配を深く考えるということは、原始的ではあっても安全で大切な技術である。それは相手の気の変化を読み取るという、東洋医学の奥義にも通じる。
 言葉少ない、田舎の素朴な老人患者のおかげで忘れかけていた医療の原点に少し気がついた。