いまどきの「コミュニケーション力」

圏外とKYといじめ----教育カウンセリング学会で土井隆義氏講演


 2010516日(日)、東京都文京区、跡見学園女子大学において、日本教育カウンセリング学会の公開講座シンポジウムが開催された。

 「友だち地獄」の演題で、同名の著書のある土井隆義氏の講演に続き、「場の空気を読めない子どもたちの行方」と題したシンポジウムとグループワークを、同学会理事長の國分康孝氏が総括した。


●「友だち地獄」(土井隆義氏講演再録)


ケータイ世代の不安

 最近、若い人は「圏外」という言葉にパニックになるほどの不安を抱いているようです。携帯電話でいえば電波が届かない圏域ということですが、不安の内容は、ここぞという時に自分から連絡できないことと、思うように自分が受信できないことです。そのため、入浴中などに特に不安を感じます。

 彼らには、「即レス」といって、受信したらすぐ返信するというマナーがあるために、即レスできない状態にストレスを感じます。その一方で、「先生の電話なんて圏外よ」というふうに、自分に都合の悪い人や情報を故意にシャットアウトする。うっとうしい教師は圏外にしてしまえというわけです。

 「圏外」に覚える不安は、この裏返しとして、自分自身が世界から消え去ったかのような感覚をもつがゆえに生じます。


KYと「そんなの関係ねえ」

 KYとは「空気が読めないこと」。「そんなの関係ねえ」は、切り離すという感覚。同じ頃に流行ったこれらのワードは、実は同じ現象の裏と表です。

 彼らの人間関係においては、仲間の内側で過剰に空気を読み合います。その分、外部に対して気を回すエネルギーが残っていません。内側の世界は生きやすいのかというと、実は息づまる関係で、この典型がいじめです。

 従来、いじめとは、異質なものを排除するという行為でしたが、彼らにとっては異質な人間はすでに圏外に切り離した「関係ねえ」存在です。このため、同質化した人間の中でわずかなちがいをいじり合っていじめが起こります。いじめを「いじり」と言い表すゆえんです。

 いじめの実態は、文科省の'80年代の定義から大きく変化してしまったため、2006年、いじめの定義が変更されました。


 従来の定義......①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの


 新たな定義......当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの


 昔は、いじめっ子、いじめられっ子という人間関係のタテの構図があり、いじめは、特定の生徒のパーソナリティに関係づけて固定的に行われていました。これに対し今のいじめは、加害者と被害者を分けるものは個人の性格ではありません。いじめの構図も継続的なものではなく、ターゲットは、時と場合によって場の空気次第で決まります。

 このためいじめは表面化せず、深刻さも「遊び」というものでラッピングされて、「いじられておいしい」などといいます。摩擦を避け、対立点は表面化しないよう圏外へ追いやられています。関係そのものが傷つくことは、自分が傷つくことに直結します。


「関係」----普遍的なものさしのない時代のナビ

 かつて私たちは、自身の抽象的な信念や信条、具体的な知識や技能、趣味などで、自尊感情を支えようとしてきました。周囲から評価されるかされないか、正しいか正しくないか、望ましいか望ましくないか、共通のものさしがはっきりしていました。

 '80年代までは、いじめも、学校という画一化された場で、「異質の排除」として行われてきました。その場の空気で評価が変わることはなく、いじめの標的も固定化し、継続的なものでした。

 今日では、自分を支えるものは人間関係です。ひとりで立っていることがつらく、むずかしい時代です。「個性の重視」が'90年代半ばに叫ばれ始めて以後、その傾向が顕著です。学校文化で表面上は多様性を称揚しても、あらゆる可能性が受け入れられるわけではない。まわりの期待に沿うものだけが受け入れられる。普遍的で画一的なものさしを押しつけられることが減って、まわりの人から個別的に具体的に評価される。そうするとウケを狙えるかどうかが自分の評価となり、ひとりで立っていられなくなります。

 社会に明確な評価の基準があった時代は、自分の内面にそれを取り入れてよりどころとし、自己肯定感をもつことができた。それがあれば周囲の評価は気にせず、信念に従って生きられる。その信念も勝手な思いこみではなく、きっといつかわかってくれるという客観性に支えられて、「これが正しいはずなんだ」という自分を超えた普遍的なところに、羅針盤としてありました。

 今日、そのような明確なものさしはありません。昔より多様な生き方が認められた社会で、あたかも自分で人生を決められるかのような錯覚がありますが、判断基準がないから、自分の方向がこれでいいのか、対人レーダーで相手の反応をみて自分のよりどころとする。GPSナビのようなものです。

 ケータイは人間関係のナビだといえます。誰かから自己承認を得ることが支えになる。しかし相手の評価というものは、前もって予想しづらく、簡単に変化します。'90年代に流行った浜崎あゆみの歌に、「僕が絶望感じた場所に君はきれいな花見つけたりする」という歌詞がありますが、同じ状況を生きていても見え方も反応も千差万別です。安全牌を求めることが同質なものを求めさせるのです。


「関係」をいじり合って起こるいじめ

 相手から否定的な評価を受けると傷つく。だから深入りしない。価値観のちがいも起こらない。かつての「腹を割って話す」という文化は通用しない。こっちでもあっちでも腹を割ってたら破綻する。むしろ腹を割って話さないことがマナーとなる。だからキャラ化する。キャラがたつようにわかりやすくして見通しをよくしている。

 仲間内での対策として、差別がなく、上から目線を極端に嫌うフラットな関係を好みます。親子関係もしかり。一方で、格のちがい、身分のちがいなど、グループ間のちがいは過剰に意識します。スクールカーストという学校のヒエラルキーでも、上や下は格がちがえば圏外として排除します。

 そのような対策のバランスが崩れたとき、いじめが起こります。人間関係がなければいじめの対象にはなりません。外部に共通の敵がなく、共通の価値観もない。それでも関係は維持する必要がある。関係が、関係のための関係として自己目的化しています。だから関係自体をいじり合って活性化し、そこにいじめが起こります。

 ここでいう活性化は、ポジティブな意味ではなく、「場を消費する」「やりすごす」というほどの意味です。共有する基盤があれば会話をしなくてもいいけれど、基盤もなくつながるにはあえて何かをしなければならない。

 たとえば、中学生のオヤジ狩りなどは、オヤジ狩りが目的なのではなく、そのような非行をネタにしてつながり、人間関係を維持しているのです。もしも共有するものがあれば離れていてもいいし、自分の羅針盤が自分の内部にあれば、つきあいも対決もできる。ですが、常時接続するためには、つながる時のネタを必要とします。


「関係」の中での生きづらさ

 かつて大人の価値基準を押しつけられる抑圧的な状況で、子どもは思うようには生きられなかった。そんな不自由さが生きづらさだった頃、尾崎豊の「15の夜」のように、あえて学校で煙草を吸うことは抵抗の証でした。

 今の子どもは「家で吸えばいいじゃん」と、学校で吸う意味を見出せません。このため思春期は反抗期とならず、親との関係は良好です。対立を避けて波風を立てない。一方で本音の話もできない。親そのものに子どもから認められたいという承認欲求があります。

 今、生きづらさの質が変わってきたのではないでしょうか。建前上の多様さと意識の上での自由さはあります。しかし現実には開かれた自由ではありません。現代の子どもの生きづらさは、同質化した人間関係の中での生きづらさになっているように思います。

 学業やスポーツができる子が上ではなく、今日的な意味での「コミュニケーション能力」----それは「空気が読める能力」や「関係調整能力」を指します----のある子が上です。ここでは優等生がカーストの下で、ギャル系の子が上です。

 空気の読めないKYの子はどうしたらいいのか。ひとつの方策は、人間関係の軸足を増やすことです。多元化して別の世界をもつ。もうひとつ、"Look at me." という際限のない欲求からベクトルを変換して、「見てもらって安心する私」から、「私が誰かを見る」という立場に移行することも有効でしょう。

 捨て猫を拾ってセックス依存症から立ち直ったある女性がいました。それは、猫エイズに罹っていて世話をしなければなりませんでした。自分が誰かに見てもらっていないと安心できなかった彼女は、猫を見てあげているうちに解放されていきました。自分が誰かの役に立つという経験は、それほど貴重なものなのです。


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 シンポジウムでは、まず片野智治座長が、土井氏の著書『友だち地獄』を「人としての根源的な存在を脅かすむずかしい問題」と評したあと、「人はふれあいと自他の発見を通して成長する。誰しも他者の人権を侵さない限り、『ありたいようにある勇気(courage to be)』をもつ自由がある」と話した。

 これに続き、「場の空気を読めない子どもたち」と題したシンポジウムで、教育現場から4人の話者が、現場でのいじめの発覚の困難、子どもたちの表面的な仲の良さ、小・中学校など過去のいじめを高校・大学までひきずるケースの多さ、孤立への恐怖、子どもたちの人間関係能力の希薄さなどについてそれぞれ語る中で、アドラー*1が提唱するワンネス(One-ness、人の内面世界を共有しようとする姿勢)、ウィネス(We-ness、人の役に立つことをしようとする姿勢)、アイネス(I-ness、自分は自分であると自己開示する姿勢)のうち、ウィネスの重要性が指摘された。

 いじめ被害に遭った子の保護者については、子どもの問題と親の問題を分離し、援助者が「子ども問題」を子どもに預けたまま、子どもによる問題解決を支援する学習プログラム(STEP)なども紹介された。すべての議論をもとにして、会場内でグループに分かれて意見を述べ合った。


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國分康孝氏によるエンディング

 今日は、社会学の観点からの問題提起、アドラーの話、STEPの話などが出ました。僕は実存主義的にコメントをしたいと思います。

 オヤジ狩りは、オヤジ狩りという行動をともにすることによって仲間すなわちsense of belonging がkeepされる。人を殺してまで友だちとつながることは、person addictという。どうやら人間関係なしには生きられない時代が来とるらしい。

 また、孤独を悪と思うbeliefの子の話も出た。Courage to be とは、人間関係を拒否しても自分のありたいようにある自由です。人間関係がうまくいけばそれに越したことはないが、人間関係以上に大事なことがあると、ムスターカス*2は言っている。日干しになっても四面楚歌になっても自分自身でいるということの大事さです。

 KYの逆で子どもたちが空気を読みすぎて疲れるという話も出ましたが、この場合の気の使い方は、nervousnessと言って、自己の防衛機制に基づいている。カウンセラーに必須の資質である相手の期待に沿った行動をするときの気の使い方であるcare または sensitive ではありません。俗に言う空気が読めない人は、egocentricな人間ということになる。

 構成的グループエンカウンター(SEG)は、対人関係を訓練する方法ですが、個を強調します。個をちゃんと意識した人が個をちゃんと意識した人とリレーションする。ゲシュタルト療法の始祖パールズの弟子のタブスは、" You are you,  I am I."と言っている。個を自覚し、他との関係も自覚するというリレーションが大切です。


*1 オーストリアの精神科医、心理学者。

*2 実存主義的心理学者。