統計法改正で死亡情報閲覧の危機?

疫学会が日本版データ・アーカイブ目指し活動
――日本疫学会学術総会本部企画「政府統計のあり方を考える」(2008年2月26日)より
 

●統計法改正が疫学研究に及ぼす影響とは
 日本では、国勢調査や人口動態調査などをはじめとする55の統計調査が総務大臣によって「指定統計」と定められ、国や地方公共団体によって実施されている。いずれも1947(昭和22)年公布された統計法により申告義務が課せられている。集積された情報は、政策運営に役立てられるほか、社会分析、研究等に広く活用されてきた。
 この統計法が、2007(平成19)年5月23日、全面改正・公布された。一般市民にはあまり知られていないこの事実が、疫学研究者を震撼させた理由は、従来申請等に手間取っても閲覧が可能であった人口動態統計の死亡小票(一次データである個別の調査票)へのアクセスを遮断すると思われる変更があったためである。
 統計法改正について、総務省は、「『行政のための統計』から『社会の情報基盤としての統計』へ」を謳い文句に、指定統計を「基幹統計」と改め、公的統計の体系的整備、統計データの利用促進と秘密の保護、統計委員会の設置を柱として示すとともに、秘密漏洩等には罰則も設けている。統計データの体系的整備そのものに異論はないにせよ、2005(平成17)年の個人情報保護法とのからみから、疫学研究者の生命線ともいえる一次データが使えなくなるのでは、精度と信頼性の高い研究が危うくなる。
 個人情報については、旧統計法でも、調査票の目的外利用禁止(第15条)と情報漏洩に対する罰金(第19条の2)など一定の配慮があった。さらに文部科学省と厚生労働省共同で出された「疫学研究に関する倫理指針」(平成14年発表以後、16年、17年、19年に改正)では、疫学研究において、個人情報を収集する際の利用目的の制限と、本人に対する説明義務・同意を必要とするインフォームド・コンセントの強調等を細かく規定している。
 改正統計法においては、一次データである「調査票情報の提供」に制限が加えられ、第33条の2に、調査票を利用できる主体が、「行政機関等と同等の公益性を有する統計の作成等として総務省令で定めるものを行う者」と明記された。つまり、省令で定めのない目的と判断された者にはデータが利用できないことになる。

●個人情報の追跡が不可欠の疫学研究
 個人情報保護法における個人情報の定義は、「生存している個人に関する情報であって、当該情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別することができるもの」となっている。取り扱いにおける目的外利用の制限(第16条)と第三者提供の禁止(第23条)などが拡大解釈されて、生活上での個人情報の収集・利用において無用の誤解を生じている側面もある。
 個人情報は、厳密にはプライバシー と区別して考える必要がある。ある種の疾病や遺伝的情報などはプライバシーに属するもので、人に知られることが個人の権利権益にかかわる。プライバシーの権利が侵害されて個人の利益が損なわれないことは、個人情報保護の目的のひとつである。
 しかし、公衆衛生という公益を目的とした疫学研究やその他の臨床研究では、プライバシーをも含む個人情報を積極的に活用してこそ得られる利益があるとして、個人情報保護法第16条3でも目的外利用を認めている。
 わかりやすい例として「地域がん登録事業」がある。ひとくちにがんの罹患率を把握するといっても、地域ごとの人口集団における罹患から治療あるいは死亡に至る全経過についての情報収集を行い、それを保管、整理、解析する作業なしには成立しない。しかも、長期間にわたってデータを保管し、追跡によって可能となる分析があるため、個人を同定する情報が必須となる。
 このような連続性ある個人データの保管や分析が大規模な疫学研究を可能にし、疾病発生の因果関係を明らかにして多くの人の健康に利益をもたらす。これには集計された二次データとしての政府統計では不十分で、必要なのはあくまでも一次データである。「地域がん登録事業」では、患者の予後や死亡のデータといった個人情報を行政と民間で共有し、がんの実態把握から得られた情報を医療機関へ還元し、医療向上と疫学研究に寄与している。

●疫学会の精力的な活動
 本来必要な情報が共有できず分析の精度が劣化すれば、公衆衛生の基盤が揺らぐ。改正統計法で、政府統計の利用が「総務省令で定める者」に限られるなら、何としても疫学および臨床研究に携わる者が「総務省令で定める者」として認定される必要がある。
 医学界で最初に動いたのは地域がん登録全国協議会であった。同会は、2007年5 月18日、がん登録事業に必須の死亡情報活用に対し法的配慮を求める要望書を厚労省に提出した。
 疫学会は、2007年7月24日にこの旨を含む数項目を要望書として厚労省に提出し、日本版の死亡情報データベースなど体制整備の必要性を強く訴えた。8月2日に総務省へも同様の要望書提出。また他学会へも働きかけ、10月19日、日本公衆衛生学会、日本衛生学会、日本産業衛生学会を加えた社会医学系4学会共同で厚労省に提出した要望書においては、社会医学研究における行政統計データの必要性を強調するとともに、すみやかな利用可能主体としての認定を求め、同様の配慮によって過去のデータも支障なく利用できることを希望している。11月7日に、先の4学会共同による総務省への要望書提出を受け、11月9日には日本医学会も厚労省と総務省に要望書を提出した。
 このほか、学会開催の機会を利用しての一般市民向け公開シンポジウムや対外的報告書の公表など、活動状況の周知にも努力している。
 今年に入ってからは、児玉和紀理事長([財]放射線影響研究所主任研究員)が内閣府の統計委員会の専門委員を医系研究者としてはじめて委嘱された。これにより医学界における統計情報の意義についての認識が深まることが期待される。

●日本版NDIの整備が急務
 2007年に疫学会に設置された将来構想検討委員会の辻一郎委員長(東北大学大学院教授)は、政府統計の活用に関して学会員にアンケートをとり、対象者215名のうち回収した61%の回答を報告した。過去二年に申請した政府統計の種類は、人口動態統計(死亡)、国民健康・栄養調査、患者調査、人口動態統計(出生)、医療施設調査で、入手における困難としては、申請手続きの煩雑さ、一年弱という入手までの時間(27件の申請のうち13件承認。申請書類の平均修正回数は10.2回)が挙がった。
 この中でとくに問題になるのが、「目的外利用」にあたる人口動態死亡小票の閲覧で、申請してから実際に目にできるまでに2年間を要する現状では利活用の促進にはほど遠く、国際的潮流からも取り残されると嘆く。
 死亡データのスムーズな閲覧と活用を可能にするひとつの方策として、日本でも米国のような死亡情報が整備されることが疫学研究者の悲願である。
 米国 には、国立健康統計センター(National Center of Health Statistics )という第三者機関があり、疫学研究の人口動態統計の小票データ(micro data)をもとにした膨大な死亡情報(National Death Index:NDI)が整備されている。医学・健康関連の統計的処理を目的とした利用には、所定の手続きを踏んで、特定の調査対象について社会保障番号等指定された項目を提出すれば、手数料を払って死因や死亡年などの希望データが抽出・提供される仕組みだ。
 現在の日本のシステムでは、許可を得て保健所で個人を特定して一次データを探していたとしても、紙の死亡小票を逐一閲覧しながら目的のデータを研究者が探し出すため、必然的に対象外の個人のデータも目に入り、求めてもいない個人情報を見る羽目になる。もし、実際のデータと利用者の仲立ちをする機関が必要なものだけを抽出してくれれば、このような事態は解消される。
 さらに、寄託された調査研究データを保管し、学術目的での利活用のために必要な研究者に対して公開するデータ・アーカイブが整備されれば、多くの疫学研究において、情報収集の労力は大幅に削減され、公衆衛生に寄与する解析が可能となる。
 唯一日本で存在するデータ・アーカイブは、東大に設置された社会科学研究所で、統計調査、社会調査の個票データを収集・保管することで散逸を防ぎ、二次分析によって学術研究に新しい可能性を与えるとして評価されている。疫学分野でも行政情報が同様に利用できれば、より洗練された形態での情報共有が研究を発展させ、人材育成にもつながっていくと学会は考える。少なくとも、追跡調査のために研究室総動員で電話をかけまくったり、同じような情報を別々の機関が収集したり、保管・共有のしくみがないために苦労して集めたデータが失われることはなくなる。
 疫学会では、疫学研究・統計調査についての国民の理解とバランスある組織的な対応を求めて今年9月をめどに対外的報告書をとりまとめる予定であったが、「『対外報告書』より『提言書』くらいのインパクトが必要か」(岸玲子北海道大学大学院教授)との発言もあり、より効果的な働きかけの方法を模索している。
 改正統計法で、統計情報が社会基盤であると明確に認識されているからには、公衆衛生を守る学会の立場が尊重され、今後の建設的な方向へと展開していかねばならない。