いまどきの「コミュニケーション力」

圏外とKYといじめ----教育カウンセリング学会で土井隆義氏講演


 2010516日(日)、東京都文京区、跡見学園女子大学において、日本教育カウンセリング学会の公開講座シンポジウムが開催された。

 「友だち地獄」の演題で、同名の著書のある土井隆義氏の講演に続き、「場の空気を読めない子どもたちの行方」と題したシンポジウムとグループワークを、同学会理事長の國分康孝氏が総括した。


●「友だち地獄」(土井隆義氏講演再録)


ケータイ世代の不安

 最近、若い人は「圏外」という言葉にパニックになるほどの不安を抱いているようです。携帯電話でいえば電波が届かない圏域ということですが、不安の内容は、ここぞという時に自分から連絡できないことと、思うように自分が受信できないことです。そのため、入浴中などに特に不安を感じます。

 彼らには、「即レス」といって、受信したらすぐ返信するというマナーがあるために、即レスできない状態にストレスを感じます。その一方で、「先生の電話なんて圏外よ」というふうに、自分に都合の悪い人や情報を故意にシャットアウトする。うっとうしい教師は圏外にしてしまえというわけです。

 「圏外」に覚える不安は、この裏返しとして、自分自身が世界から消え去ったかのような感覚をもつがゆえに生じます。


KYと「そんなの関係ねえ」

 KYとは「空気が読めないこと」。「そんなの関係ねえ」は、切り離すという感覚。同じ頃に流行ったこれらのワードは、実は同じ現象の裏と表です。

 彼らの人間関係においては、仲間の内側で過剰に空気を読み合います。その分、外部に対して気を回すエネルギーが残っていません。内側の世界は生きやすいのかというと、実は息づまる関係で、この典型がいじめです。

 従来、いじめとは、異質なものを排除するという行為でしたが、彼らにとっては異質な人間はすでに圏外に切り離した「関係ねえ」存在です。このため、同質化した人間の中でわずかなちがいをいじり合っていじめが起こります。いじめを「いじり」と言い表すゆえんです。

 いじめの実態は、文科省の'80年代の定義から大きく変化してしまったため、2006年、いじめの定義が変更されました。


 従来の定義......①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの


 新たな定義......当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの


 昔は、いじめっ子、いじめられっ子という人間関係のタテの構図があり、いじめは、特定の生徒のパーソナリティに関係づけて固定的に行われていました。これに対し今のいじめは、加害者と被害者を分けるものは個人の性格ではありません。いじめの構図も継続的なものではなく、ターゲットは、時と場合によって場の空気次第で決まります。

 このためいじめは表面化せず、深刻さも「遊び」というものでラッピングされて、「いじられておいしい」などといいます。摩擦を避け、対立点は表面化しないよう圏外へ追いやられています。関係そのものが傷つくことは、自分が傷つくことに直結します。


「関係」----普遍的なものさしのない時代のナビ

 かつて私たちは、自身の抽象的な信念や信条、具体的な知識や技能、趣味などで、自尊感情を支えようとしてきました。周囲から評価されるかされないか、正しいか正しくないか、望ましいか望ましくないか、共通のものさしがはっきりしていました。

 '80年代までは、いじめも、学校という画一化された場で、「異質の排除」として行われてきました。その場の空気で評価が変わることはなく、いじめの標的も固定化し、継続的なものでした。

 今日では、自分を支えるものは人間関係です。ひとりで立っていることがつらく、むずかしい時代です。「個性の重視」が'90年代半ばに叫ばれ始めて以後、その傾向が顕著です。学校文化で表面上は多様性を称揚しても、あらゆる可能性が受け入れられるわけではない。まわりの期待に沿うものだけが受け入れられる。普遍的で画一的なものさしを押しつけられることが減って、まわりの人から個別的に具体的に評価される。そうするとウケを狙えるかどうかが自分の評価となり、ひとりで立っていられなくなります。

 社会に明確な評価の基準があった時代は、自分の内面にそれを取り入れてよりどころとし、自己肯定感をもつことができた。それがあれば周囲の評価は気にせず、信念に従って生きられる。その信念も勝手な思いこみではなく、きっといつかわかってくれるという客観性に支えられて、「これが正しいはずなんだ」という自分を超えた普遍的なところに、羅針盤としてありました。

 今日、そのような明確なものさしはありません。昔より多様な生き方が認められた社会で、あたかも自分で人生を決められるかのような錯覚がありますが、判断基準がないから、自分の方向がこれでいいのか、対人レーダーで相手の反応をみて自分のよりどころとする。GPSナビのようなものです。

 ケータイは人間関係のナビだといえます。誰かから自己承認を得ることが支えになる。しかし相手の評価というものは、前もって予想しづらく、簡単に変化します。'90年代に流行った浜崎あゆみの歌に、「僕が絶望感じた場所に君はきれいな花見つけたりする」という歌詞がありますが、同じ状況を生きていても見え方も反応も千差万別です。安全牌を求めることが同質なものを求めさせるのです。


「関係」をいじり合って起こるいじめ

 相手から否定的な評価を受けると傷つく。だから深入りしない。価値観のちがいも起こらない。かつての「腹を割って話す」という文化は通用しない。こっちでもあっちでも腹を割ってたら破綻する。むしろ腹を割って話さないことがマナーとなる。だからキャラ化する。キャラがたつようにわかりやすくして見通しをよくしている。

 仲間内での対策として、差別がなく、上から目線を極端に嫌うフラットな関係を好みます。親子関係もしかり。一方で、格のちがい、身分のちがいなど、グループ間のちがいは過剰に意識します。スクールカーストという学校のヒエラルキーでも、上や下は格がちがえば圏外として排除します。

 そのような対策のバランスが崩れたとき、いじめが起こります。人間関係がなければいじめの対象にはなりません。外部に共通の敵がなく、共通の価値観もない。それでも関係は維持する必要がある。関係が、関係のための関係として自己目的化しています。だから関係自体をいじり合って活性化し、そこにいじめが起こります。

 ここでいう活性化は、ポジティブな意味ではなく、「場を消費する」「やりすごす」というほどの意味です。共有する基盤があれば会話をしなくてもいいけれど、基盤もなくつながるにはあえて何かをしなければならない。

 たとえば、中学生のオヤジ狩りなどは、オヤジ狩りが目的なのではなく、そのような非行をネタにしてつながり、人間関係を維持しているのです。もしも共有するものがあれば離れていてもいいし、自分の羅針盤が自分の内部にあれば、つきあいも対決もできる。ですが、常時接続するためには、つながる時のネタを必要とします。


「関係」の中での生きづらさ

 かつて大人の価値基準を押しつけられる抑圧的な状況で、子どもは思うようには生きられなかった。そんな不自由さが生きづらさだった頃、尾崎豊の「15の夜」のように、あえて学校で煙草を吸うことは抵抗の証でした。

 今の子どもは「家で吸えばいいじゃん」と、学校で吸う意味を見出せません。このため思春期は反抗期とならず、親との関係は良好です。対立を避けて波風を立てない。一方で本音の話もできない。親そのものに子どもから認められたいという承認欲求があります。

 今、生きづらさの質が変わってきたのではないでしょうか。建前上の多様さと意識の上での自由さはあります。しかし現実には開かれた自由ではありません。現代の子どもの生きづらさは、同質化した人間関係の中での生きづらさになっているように思います。

 学業やスポーツができる子が上ではなく、今日的な意味での「コミュニケーション能力」----それは「空気が読める能力」や「関係調整能力」を指します----のある子が上です。ここでは優等生がカーストの下で、ギャル系の子が上です。

 空気の読めないKYの子はどうしたらいいのか。ひとつの方策は、人間関係の軸足を増やすことです。多元化して別の世界をもつ。もうひとつ、"Look at me." という際限のない欲求からベクトルを変換して、「見てもらって安心する私」から、「私が誰かを見る」という立場に移行することも有効でしょう。

 捨て猫を拾ってセックス依存症から立ち直ったある女性がいました。それは、猫エイズに罹っていて世話をしなければなりませんでした。自分が誰かに見てもらっていないと安心できなかった彼女は、猫を見てあげているうちに解放されていきました。自分が誰かの役に立つという経験は、それほど貴重なものなのです。


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 シンポジウムでは、まず片野智治座長が、土井氏の著書『友だち地獄』を「人としての根源的な存在を脅かすむずかしい問題」と評したあと、「人はふれあいと自他の発見を通して成長する。誰しも他者の人権を侵さない限り、『ありたいようにある勇気(courage to be)』をもつ自由がある」と話した。

 これに続き、「場の空気を読めない子どもたち」と題したシンポジウムで、教育現場から4人の話者が、現場でのいじめの発覚の困難、子どもたちの表面的な仲の良さ、小・中学校など過去のいじめを高校・大学までひきずるケースの多さ、孤立への恐怖、子どもたちの人間関係能力の希薄さなどについてそれぞれ語る中で、アドラー*1が提唱するワンネス(One-ness、人の内面世界を共有しようとする姿勢)、ウィネス(We-ness、人の役に立つことをしようとする姿勢)、アイネス(I-ness、自分は自分であると自己開示する姿勢)のうち、ウィネスの重要性が指摘された。

 いじめ被害に遭った子の保護者については、子どもの問題と親の問題を分離し、援助者が「子ども問題」を子どもに預けたまま、子どもによる問題解決を支援する学習プログラム(STEP)なども紹介された。すべての議論をもとにして、会場内でグループに分かれて意見を述べ合った。


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國分康孝氏によるエンディング

 今日は、社会学の観点からの問題提起、アドラーの話、STEPの話などが出ました。僕は実存主義的にコメントをしたいと思います。

 オヤジ狩りは、オヤジ狩りという行動をともにすることによって仲間すなわちsense of belonging がkeepされる。人を殺してまで友だちとつながることは、person addictという。どうやら人間関係なしには生きられない時代が来とるらしい。

 また、孤独を悪と思うbeliefの子の話も出た。Courage to be とは、人間関係を拒否しても自分のありたいようにある自由です。人間関係がうまくいけばそれに越したことはないが、人間関係以上に大事なことがあると、ムスターカス*2は言っている。日干しになっても四面楚歌になっても自分自身でいるということの大事さです。

 KYの逆で子どもたちが空気を読みすぎて疲れるという話も出ましたが、この場合の気の使い方は、nervousnessと言って、自己の防衛機制に基づいている。カウンセラーに必須の資質である相手の期待に沿った行動をするときの気の使い方であるcare または sensitive ではありません。俗に言う空気が読めない人は、egocentricな人間ということになる。

 構成的グループエンカウンター(SEG)は、対人関係を訓練する方法ですが、個を強調します。個をちゃんと意識した人が個をちゃんと意識した人とリレーションする。ゲシュタルト療法の始祖パールズの弟子のタブスは、" You are you,  I am I."と言っている。個を自覚し、他との関係も自覚するというリレーションが大切です。


*1 オーストリアの精神科医、心理学者。

*2 実存主義的心理学者。


人間を多面的にみる疫学の視点

――高度な統計データ分析に必要なものとは
 竹内啓(内閣府統計委員会委員長・東京大学名誉教授)

 3月29日(日)の夕方に開催された第79回日本衛生学会の市民公開講座で、内閣府統計委員会委員長の竹内啓氏(東京大学名誉教授)が、「高齢化と予病医学の重要性」の題で講演を行った。疫学がいかに人間的な学問かが誰にも理解できるざっくばらんな語り口の一方で、専門家ならではの鋭い指摘がいくつもみられた。下記に、講演を抜粋再録した。

100歳まで老化しないのもねえ......
 皆さんご存じの通り、日本の高齢化というのは規定の事実ですね。生まれちゃった人が死ぬまで生きているとすると、老人比率が圧倒的に増えることが予測されています。長生き自体はおめでたいことですが、一方で国民医療費が、1955年の2,388億円から2006年には331,276億円へと増えています。物価の上昇もありますから国民所得に対する割合でみると、3.42%が8.88%になっている。中でも高齢者の医療費が問題になっています。
 そこで財政負担が問題になりますが、医療を受ける方だって医療費が上がってたくさんの医療サービスを受けることが幸せかというと、もちろんそうではありません。ならば事前に何とかしなければ、というので、予防医学という概念が出てきます。「予防」は「予病」という言葉でもいいかなと思うので、今日はそういうタイトルにしてみました。
 健康の概念は、非常に多面的かつ複雑なものです。なぜなら、健康イコール正常という単純な図式にはならないからです。そもそも何が正常かということも、いろいろと厄介な問題をはらんでいます。何となく調子が悪い状態を病気と言えるでしょうか。私も新米の後期高齢者ですが、年をとると物忘れがある、頭の回転だってゆっくりになる。では、老化は病気か。むしろ老化しないで100歳になったら、そっちのほうが異常じゃないでしょうか。
 WHOでも健康の定義に「社会的に適応していること」という言葉を入れていますが、健康は人間関係の中で論じられる必要があると思います。健康な人とは、「本人、まわりの人にとって、身体的、精神的に望ましい状態にある人」と言えるでしょう。
 そうすると、ほどほどに役立つということが健康と言っていいのかなあと思います。勝手な思い込みで大きく役立とうなどと思うと、かえって人に迷惑をかけたりしますから。
 もうひとつ、価値観の問題もある。本人はいいつもりでも家族やまわりが迷惑していたりする。つまり、医療と社会の価値判断には矛盾があるわけです。
 一例ですが、かつてハンセン病や結核の患者さんは隔離されていました。今日では、人権侵害にあたるとしてこのようなことはなくなりました。しかし、さかのぼって当時の状況を考えると、治療法も確立されていなかった時代に、果たしてそのような感染症の人に自由な行動を許すことができたか。そう簡単には行きません。それを思うと、当時そのような決断を下した人を安易に糾弾することもまた、むずかしいのではないかと思います。
 つまり、本人の幸せと社会の幸せは、一致しないことがあるのです。

人間は矛盾をはらんだ存在
 そもそも、人間には生老病死(しょうろうびょうし)といって、仏教でいうところの「四苦(しく)」つまり、四つの苦がある。「生まれる」は英語で受け身形のwas bornと言いますが、われわれ、好きこのんで生まれたわけではありません。親だって選べない。老化もまた必然です。病もまた避けることができない。寿命があるから死も必然です。こればっかりは、いくら世の中が進んでも自分の選択で自由にはできません。予防医学でも老化を遅らせることはできるかもしれませんが、なくすことはできません。
 つまり、科学による根本的な解決は不可能だと言っていいのです。それでも科学は、人間に内在する矛盾を緩和することができます。ここが重要です。昔のように若い人が結核で亡くなったり、小さい子が伝染病で亡くなることがないのは、科学の進歩のおかげであり、天寿を全うされる方が増えています。
 しかし、進歩のために生じた矛盾についてはどうでしょうか。脳死の人の生命維持や、遺伝子診断で生まれる前にわかった障害児についてどうするか、臓器移植の問題などもある。とくに臓器移植はその供給源が大きな問題となっています。これらは、技術が進んだことから生じた矛盾と言えるでしょう。
 それでは、予防医学または予病医学を、もう少し限定して、「病気を防ぐこと」と定義しましょう。病気の発生には、感染症や中毒、傷害などの外的要因と、遺伝病や生活習慣病、がんなどの内的要因が関与しています。さらに、細菌、ウイルス、毒や遺伝子などの直接的原因、衛生状態、栄養状態、ストレスなどの間接的な原因が複合的に組み合わさって起きています。
 しかも個人差があるため、発症は非常に不確実です。どうしたらどうなるか、はっきりしません。なっちゃった病気を治すならまだしも、これからなるかもしれない病気を事前に防ぐのは、大変なことです。
 ここに疫学的アプローチの重要さがあります。統計的な方法を用いることで、判断の基準とすることができるのです。ただし、通常の科学は、きわめて制御された環境と条件の中で実験を行いますが、人間集団を相手にしている疫学では、制御された実験は容易ではありません。統計はそれだけでは科学的真実とはいえないからです。そのように、因果関係の確定は、大変むずかしいことなのです。

偉大なる歴史的大間違い
 ふたつの例をご紹介しましょう。
 近代統計学の基礎を築いた有名なR.A.フィッシャーという人がいます。20世紀最大の統計学者であると言ってもいいと思うんですが、この人は、たばこと肺がんの発症の関係を頑強に否定したことでも有名です。これは、イギリスで膨大な研究が行われて導かれた因果関係です。ところが、フィッシャーさん、大のたばこ好きでした。しかも遺伝学者でもあった。
 彼は、たばこが好きになる遺伝子と肺がんになる遺伝子とは密接な関係があるのだと主張して、たばこ好きがたばこを吸わなければ、もっと肺がんになるのだという屁理屈をこねたのです。
 ほんとはそんなことは、たばこ好きな人に吸うのを禁止する、禁止しない、たばこが好きでない人にたばこを吸わせる、吸わせない、といった4通りの研究を行ってからでないと言えないことなのですが、とにかく、フィッシャー先生は、こんなことを言っていたのです。
 もうひとつは、小説家の森鴎外の話です。彼は、陸軍の軍医総監でもあった。当時は日清戦争の頃で、戦争で弾に当たって死ぬ人よりも、脚気で死ぬ人のほうが多いという状況でした。海軍で、白米がよくないのではないかといって、パン食にしたり、麦飯にしたりしたところ、脚気で死ぬ兵隊が減ったので、陸軍でも試してはどうかと勧めたところ、鴎外は頑迷にこれを拒みました。
 時代は19世紀、すべての病気は細菌が原因だというコッホやパスツールの発見が出ていたので、鴎外は、白米が悪いという根拠などない、脚気菌のせいだと断固反対して、かえって病死者を増やす結果となりました。もちろん、脚気菌などないことは、その後、ビタミンBが発見されて明らかになりました。
 ですから、因果関係が厳密に確立していなくても、操作的因果性といって、麦がよいというなら麦にしてみたらよかったと思うのです。そのように疫学というのは、一定のロジックだけでは無理で、多面的なアプローチが必要です。人はいろんな条件のもとで生活しているわけですから、いろんな方向からアプローチしなきゃいけない。人の健康にはいろんなことが影響しているのです。
 何が実際にいいかを考えて、たとえば結核の場合だったら、今では結核菌に感染していることがわかっていますが、昔は、栄養をとって空気のいいところで静養するという方法で治していたのです。それを根本的な解決でないからといって否定することは、むしろ科学的ではないのではないでしょうか。

ものごとは単純ではない
 統計的指標には、たくさんの種類があります。その中で、家庭の状態などは相当大事です。貧しければ医者にかかれない。栄養状態も関係する。また夜更かしなどの生活時間も、まだあまり健康や医療と結びつけられてはおりませんが、かなり重要なことだろうと思います。
 アルコールも同じで、社会的な関係で飲むこともあるわけです。社会関係、職場の関係を考慮することが大切で、飲み過ぎが健康に悪いというキャンペーンだけでは不十分です。いろんなことを結びつけ、高度に利用する必要がある。沖縄の人が長寿だとよく言われます。でも、それは本当か? 統計とは、表面的にそれらしく見えたことを、本当かどうか確かめる学問です。
 景気が悪くて、実質経済成長率が-12.7%だとか-12.6%だとか言われます。なのに名目成長率は-6.6%です。なぜ差があるのか。物価が上がったか? いいや、物価は下がっています。デフレ経済ではGDPデフレーター(注)が上がって、輸入物価が下がっている。そうすると、実は輸入物価が下がると逆にデフレーターは押し上げられることになるのです。
するとこの場合は、むしろ名目成長率の数字のほうが実態に近いということになり、この-12.7%という数字がひとり歩きすることは非常に危険だと言えます。
 じゃあ、沖縄が長寿だというのは、どういう要因によるものか。まずは事実の確認です。考えられる要因をリストアップして、それぞれの効果の大きさを考える必要があります。複合要因、交互作用も検証しなけれなりません。「気候がいいからだ」と言うなら、他県の気候はどうか、調べる。栄養やお酒のことも調べないといけない。そんなふうにいろいろな要因があるので、特定のことに飛びついて簡単に決めてはいけないのです。
 充分に検討したあとも、残された要因についてまだ検討しなくてはならない。個人ごとにどういう生活なのか、いろいろと結びつけて分析する。ここには、プライバシーの問題もからんでくるので非常に難しい。
 このように予防医学と疫学的アプローチは密接に関連しています。統計的指標には、病気や死亡に関するもの、生活時間や栄養、医療、家計、職業に関するものがあります。関連する統計としては、人口動態調査、国民生活基礎調査、社会生活基本調査、患者調査、学校保健統計調査があり、基幹統計としての国勢調査があります。
 ここで大切なのが、統計データを高度に利用するということです。

統計データを高度に利用するとはどういうことか
 いくつもの要因を調べてデータをマッチングさせることを多変量解析といいます。個人、世帯、調査区、地域レベルまでの特性を調べて、関係を調べる。県単位では大きすぎるので、小地域(コミュニティ)が適当でしょう。もうひとつ、同じ対象を10年、20年と時系列に追跡することも必要です。その間に脱落する人もいるので大変です。国の調査みたいに、「あなたが当たりました」と言って協力してもらえませんから、本人の同意も得る必要があります。
 小地域(コミュニティ)は、市町村合併で地域的なつながりのないところが一緒になった場合があるので、本当に行政区画の通りの地域を単位としてよいかも、検討します。
 残念ながら、現在の統計制度では、予防医学に役立つ分析を行うには、やや限界があります。日本の統計は、分散型の統計といって、データによって集計を行っている省庁が異なるのです。厚生労働省は人口や医療・保健統計、総務省統計局は生活全般に関する統計をとっています。国土交通省や農林水産省にもデータベースがあります。それぞれの省や庁が迅速に対応できるというメリットはありますが、垣根を越えたデータ利用がスムーズでないという難点があります。
 ここで体系的な統計データを整備すべく、調整を行っているのが統計委員会です。また地方公共団体もそれぞれにデータをとっていますし、役所以外に公益法人の統計もあり、それらを活用できるとよいのですが、データの統一化がはかられていない点も問題です。
 最近はプライバシーの問題にもかなりの配慮が求められますから、あるところのデータを他で使っては秘密漏洩になるといって、データを結びつけることが困難になっています。
 行政記録の中には、統計調査で得られた数字ではないものも、統計を作るために活用できるものがあります。また、カルテやレセプトなどにも多くの情報が含まれています。これらのデータもリンクしてスムーズに使えるようでないと、本当に高度な利用はできません。
 この点、カナダなどは統計先進国で、集中型統計制度によって、ひとつの大きな統計庁のようなところで、調査も分析も行っています。また、各省庁も要求されれば、データを提供する義務があります。日本の法律では、「統計のために利用できる」と書いてあっても、実際にはなかなかむずかしい面もあります。
 このような制度の問題を改善しなければ、ちゃんとした数字に基づいてものを言って、政策を立てるということもできないのです。役所でも統計資料をきちんと調べないで立案した政策が、あとで混乱する場合が少なくないのです。
 後期高齢者医療制度などはその典型です。誰もまともに議論せずに通してしまった。含んでいる問題はわかっていたのですから、統計データを使えば、あるいは少しの予備調査をすれば、マイナスもプラスも明らかにした上で、政策としてどうしても必要ならば押し切ることができたと思います。もしも制度が頓挫すれば、莫大な損失です。もう少し統計の重要性を評価するように、政府も、世の中全体も、ものの見方を変えてもらわなきゃならないと思います。
 現在の統計委員会のほとんどが経済畑の人で占められて、医療関係の専門家がいないことも、改善すべきだと思います。
 保健統計は、データとしては存在しますが、健康を中心に据えた統計として整理すべき点がまだまだあります。苦労して集めたデータも、使わなければ価値がありません。今後の若い先生方が、十分データを使って有益な成果を出して下さるようご活躍に期待します。

    (注)GDPデフレーター 一定期間の物価動向を把握するための指数のひとつで、名目GDPを実質GDPで割ったもの(GDP:国内総生産)。輸出入価格の影響を受ける。
竹内 啓(たけうち・けい) 1933(昭和8)年、東京生まれ。東京大学経済学部卒、同大学大学院博士課程修了。同大学教授、明治学院大学教授をへて、現在、東京大学名誉教授、内閣府統計委員会委員長。専門は数理統計学。統計学、経済学をはじめ、科学技術の分野にまでわたる著書多数。

産業衛生の現場では専門職も働く仲間

「作業衣に着替えて現場へ出よう」
住吉右光「さんぽ会」会長が語る

 産業保健にかかわる専門職や学生が集う「さんぽ会」は、現場目線重視の活動で知られる。2009年3月例会では、住吉右光会長自らが、45年にわたる産業医経験から、現場での種々のエピソードと、専門職の企業での在り方についての具体的助言を語った。

職場巡視では発見がある
 私が製薬会社で産業医としてのスタートを切った1964年は、健康管理という概念も明確ではなく、産業医という言葉もありませんでした。1972年、労働基準法から労働安全衛生法が独立して以降、職域での労働者の安全や健康を守るための取り組みが本格化してきました。その後私も、百貨店、銀行、自動車会社などで仕事をしてきました。
 産業保健にかかわる専門職というのは、事業所内で人に好かれなければ、なかなか仕事がやりづらい面があります。このこと自体は、時代が進み法律が変わっても変わりません。社員から相談にこられるようになれば、専門職として一人前です。
 時には白衣が有効なこともありますが、白衣を着て、なんとなくえらそうに見えてしまわないように気をつけなければなりません。できるだけ白衣から作業衣に着替えて現場に出るという姿勢が大切です。職場巡視では思いがけない発見があるからです。逆にいえば、現場を回らなければ見過ごされてしまうことも多いのです。
 製薬会社時代に、胃の悪い男性がいました。内視鏡検査などでも原因がわかりません。その人の働いている現場近くまで出かけて行って様子を見ていると、ビタミンB1の源末をちょこちょこ舐めています。普通、1日1~2mgの量しか必要のないところを、この人は無意識の癖で1000mgも舐めていたのです。これが原因でB2とB6をブロックして慢性胃炎になっていたことがわかりました。
 一見何でもない人たちのちょっとしたデータをきちっとみることも大切です。よくみると、とんでもないものがみつかったりします。横隔膜の少しの変形に気づいて検査をして、肝がんがみつかったこともありました。
 健診で得られたデータをきちんとみることは、大きな見過ごしを防いでくれます。

人を巻き込み動かし、自分も動き回る
 産業衛生にかかわる専門職は、社員の健康を守るのが仕事です。そのためにも、企業をよく知り、企業と上手に関係づくりをしていく必要があります。持ち株会に入る、社内報の枠をもらう、現場に行く、調査に参加する、安全衛生委員会に参加するなど、方法はいくつもあります。とにかく人に会うことです。
 人を動かすような資料を上手くつくるのもひとつの手です。同業他社との健康データを比較したような資料を提出すると、企業側も気になりますから必ず反応があります。情報をどんどん出して、会社に知らしめることは有効です。
 このほか、人事の人も巻き込んで勉強会の仲間に入れてしまう。いろんな提案は返事がもらえるように必ず文書で行う。また、出張したら、きちんと報告を出しておくと、次にも行かせてもらえます。
 会社で働くいろんな人と仲良くなることもたくさんの効用があります。役員付きの運転手は、しばしばキーパーソンですし、掃除のおばさんなんかからもいろんな情報が入ってきます。そのような人たちの評判は大切です。私など、百貨店の産業医時代にあちこち動き回っていたら、顔を覚えられてスーツを安くしてもらったりしました。

健康だからいい仕事ができる
 日本の労働衛生の歴史は、昭和30年代に有害業務が問題になった頃、直接的に人の健康を害する物質について、自分たちで管理できるしくみをつくろうということから始まっています。
 健診は、法に基づいて行うとは書いてあるが、その先の判定についてはとくに規定はありません。医師によってはその産業が引き起こしている健康障害のみに注目して、ドックの結果に無関心な人もいるかもしれません。
 日本の職域での健康診断のあり方に、もう少し統一的な柱があれば、より精度の高い健康管理が国全体として可能になるのではないかとも思います。
 ともすれば企業は、労働者がいいアイデアを出してよく働き、収益を上げ、そして健康であればいいという考え方をしがちです。ですが、われわれ産業保健にかかわる専門職は、まず労働者の健康が第一。健康だからこそいい仕事ができ、会社に貢献できる。そういう立場で働く人たちの環境を整えていくのが基本姿勢です。
 一朝一夕にはいかないことも多いですが、大切なのは企業は人がつくっているということを理解してくれる人をみつけて、協力者にしつつ、小さな努力を積み重ねていくことだと思います。